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【随想】太宰治『もの思う葦』③
自作を語るなんてことは、老大家になってからする事だ。
(『自作を語る』)
これは弱い性格の人間の特徴かも知れませんが、人が余り騒ぐような、また尊敬しているような作品には一応、疑惑を持つ癖があります。
(『先輩・好きな人達』)
きのう読んだ辰野氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のようなセナンクウルの言葉が録されてあった。
「生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家が時には僕を死の前にさらしたり、死に赴かせたりするのだ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」
織田君を殺したのは、お前じゃないか。
彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
織田君! 君は、よくやった。
(『織田君の死』)
動きのあること。それは世のジャーナリストたちに屢々好評を以て迎えられ、動きのないこと、その努力、それについては不感症では無かろうかと思われる程、盲目である。
(『井伏鱒二選集』後記)
一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
(『如是我聞』)
「作品」だなんていやにふんぞり返って偉そうにしているけれど、なんのことはない、商売だよ、媚びだよ、卑屈だよ、妥協だよ、何処かの誰かの賛辞を期待した押し売りなんだよ。他愛のないものなんだ。決して威張れるようなものではないんだ。まして、その効果とか、感動とか、そんなもの、どうぞご自由にだ。発した時点でもう手を離しているのだから、後は誰がどう解釈しようが、煮ようが焼こうが知ったこっちゃない。それを止める権利など無い。どうとでも好きにすればいい。オリジナルがこの手にある限り、コピーなど問題ではない。大体、昨日の自分でさえ何を考えていたのかもうよく分からないのに、いわんや作っていた頃の自分など全くの他人だ。何か聞かれたってさ、そんなの全部さ、「恐らく」「或いは」「多分」「そうかもねえ」「どうだろうねえ」って、そんなもんさ。
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