【随想】宮沢賢治『雁の童子』
あらゆるものはあらゆる場所を巡る。昨日街でコートの裾を揺らした風を今日海鳥が小魚と共に飲み込んだかも知れない。今日川に投げ込んだ石が川虫を押し潰し明日それを糧とする筈だった魚が一匹飢え死にするかも知れない。いつの日か、どうしてもある川魚を食べたいのに手に入らずに悔しさの中で死んでいく人間が、居ないとは限らない。おかしな奴だと笑った見ず知らずの相手が商談相手として現れることなど、よくありそうなものだ。
不定であること、循環することとは、あらゆる偶然を必然だと言い換え得るということだ。死と生が互いに互いの条件であるように、あらゆるものはあらゆるものの条件である。主観的な価値の大小とは別に、ほんの一瞬の氷の煌めきでさえ世界を構成する必要不可欠な現象なのだ。無限の現象たちの永遠の連鎖は片時も止まることはない。いや、時間が流れているという感覚もまた、そう感じることで諸々納得するための一つの方便に過ぎない。もし時すら”ない”のなら、一体この世には何が”ある”というのか。因果か、認識か。考えるという行為にも時間は必要であるという事実に、人の限界を感じる。何かを考えている間にも世界はどんどん変わっていく。先刻考えた世界はもう今の世界ではない。よく似ているけれど、それは記憶の中の幻であり、記憶もまた時間が生み出した幻なのかも知れない。まさしく堂々巡り、大循環。因果応報するのは、思考そのものである。
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