【随想】太宰治『新ハムレット』②
二元論。畢竟全ての事象は、そうであるか、そうでないか、の二種類しかないと言う論理。生きているか、生きていないか。やるか、やらないか。成功か、成功でないか。勝利か、勝利でないか。そうであり且つそうではない何かという可能性の排除。真中は有り得ない。中間とは理想上の存在であり、現実は必ずどちらかに属している。
だが、50パーセントと50パーセントの間にはきっと或る何かが存在していると、そう信じたい。無限に小さいパーセント、普通は知覚出来ない幽霊の如き可能性、夢幻と現実を繋ぐ何かが、それが無ければ宇宙がバラバラになってしまうようなそんな何かが、きっと在るのだと信じたい、信じ抜くと自分に誓おう。
人は何をもって世界を世界と認識するのか。アプリオリとは何か。何故赤児は乳首を吸うのか、瞳を見つめるのか、意識を保っていられるのか。誰にも教わっていないのに、自分という概念さえ持っていないのに。それはきっと、50パーセントと50パーセントの間にある何かを持っているからだ。その目が開くはるか以前から、羊水の闇を漂っているその時から、初めて細胞分裂をしたその時から、既にそれを持っていたから、この世界に飛び出して来れたのだ。赤児は生まれる瞬間、その手に確かに何かを握っている。
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