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【随想】宮沢賢治『茨海小学校』

 校長は鷹揚にめがねを外しました。そしてその武田金一郎という狐の生徒をじっとしばらくの間見てから云いました。
「お前がその草わなを運動場にかけるようにみんなに云いつけたんだね。」
 武田金一郎はしゃんとして返事しました。
「そうです。」
「あんなことして悪いと思わないか。」
「今は悪いと思います。けれどもかける時は悪いと思いませんでした。」
「どうして悪いと思わなかった。」
「お客さんを倒そうと思ったのじゃなかったからです。」
「どういう考でかけたのだ。」
「みんなで障碍物競走をやろうと思ったんです。」
「あのわなをかけることを、学校では禁じているのだが、お前はそれを忘れていたのか。」
「覚えていました。」
「そんならどうしてそんなことをしたのだ。こう云う工合にお客さまが度々おいでになる。それに運動場の入口に、あんなものをこしらえて置いて、もしお客さまに万一のことがあったらどうするのだ。お前は学校で禁じているのを覚えていながら、それをするというのはどう云うわけだ。」
「わかりません。」
「わからないだろう。ほんとうはわからないもんだ。それはまあそれでよろしい。お前たちはこのお方がそのわなにつまずいて、お倒れなさったときはやしたそうだが、又私もここで聞いていたが、どうしてそんなことをしたか。」
「わかりません。」
「わからないだろう。全くわからないもんだ。わかったらまさかお前たちはそんなことしないだろうな。では今日の所は、私からよくお客さまにお詫を申しあげて置くから、これからよく気をつけなくちゃいけないよ。いいか。もう決して学校で禁じてあることをしてはならんぞ。」

宮沢賢治『茨海小学校』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

 黒板には「最高の偽は正直なり。」と書いてあり、先生は説明をつづけました。
「そこで、元来偽というものは、いけないものです。いくら上手に偽をついてもだめなのです。賢い人がききますと、ちゃんと見わけがつくのです。それは賢い人たちは、その語のつりあいで、ほんとうかうそかすぐわかり、またその音ですぐわかり、それからそれを云うものの顔やかたちですぐわかります。ですからうそというものは、ほんの一時はうまいように思われることがあっても、必ずまもなくだめになるものです。
 そこでこの格言の意味は、もしも誰かが一つこんな工合のうそをついて、こう云う工合にうまくやろうと考えるとします。そのときもしよくその云うことを自分で繰り返し繰り返しして見ますと、いつの間にか、どうもこれでは向うにわかるようだ、も少しこう云わなくてはいけないというような気がするのです。そこで云いようをすっかり改めて、又それを心の中で繰り返し繰り返しして見ます、やっぱりそれでもいけないようだ、こうしよう、と考えます。それもやっぱりだめなようだ、こうしようと思います。こんな工合にして一生けん命考えて行きますと、とうとうしまいはほんとうのことになってしまうのです。そんならそのほんとうのことを云ったら、実際どうなるかと云うと、実はかえってうまく偽をついたよりは、いいことになる、たとえすぐにはいけないことになったようでも、結局は、結局は、いいことになる。だからこの格言は又
『正直は最良の方便なり』とも云われます。」

同上

 嘘には二種類ある、自分の身を守る為の嘘と相手を陥れる為の嘘、言い換えれば防御的な嘘と攻撃的な嘘である。小さな子供はよく嘘をつくが、その性質は全て前者であり、子供でありながら積極的に人を騙し、苦痛を与えようとしたり何らかの利益を得ようとする者はまずいない。まだ学校のような集団社会を知らない小さな時分は、嘘が相手に与える影響や自らにもたらす利益について経験的な知識や感覚が無く、そのリスクもリターンも分からない。だから嘘をついたとしても、嘘をついているという意識は極めて希薄であり、悪いことだと教えられているから悪いと思うだけである。それが長じるにつれ、苦し紛れについた嘘によって予想外の利益を得るという謂わば成功を体験し、その味を覚えていく。周りの人間が聡明であれば、彼の嘘はやがて見破られ、成功は挫折へと変わり、嘘が持つ大きなリスクを知ることで彼は嘘を嫌うようになる。だがその挫折を知ることの無いまま幼年期を越え、少年期を越えてしまうと、モンスターが誕生する。嘘がもたらす利益と快感に溺れ、嘘をつかずにはいられなくなるのだ。それは彼の性質として固定され、もはや一生変わることはない。嘘つきを矯正しようとするのは無駄である。それでも付き合わなければならないのなら、嘘をつかれる覚悟を決めるしかない。

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