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【随想】宮沢賢治『貝の火』

それはとちの実位あるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃えているのです。ひばりの母親が又申しました。
「これは貝の火という宝珠でございます。王さまのお言伝ではあなた様のお手入れ次第で、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうかお納めをねがいます。」

宮沢賢治『貝の火』(童話集『新編 風の又三郎』)新潮社,1989

「ホモイ。お前はもう駄目だぞ。今日こそ貝の火は砕けたぞ。出して見ろ。」
 お母さんが涙をふきながら函を出して来ました。お父さんは函の蓋を開いて見ました。
 するとお父さんはびっくりしてしまいました。貝の火が今日位美しいことはまだありませんでした。それはまるで赤や緑や青や様々の火が烈しく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、又いなずまが閃いたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焰が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたるかずらなどが、一面風にゆらいだりしているように見えるのです。

同上

 大切なものは、失うまでその価値が分からない。大体そういものは当たり前に持っていて、乱暴に扱っても中々壊れないものだから、次第々々に蔑ろにされてゆく。例えば、愛。例えば、時間。分かり易く表面から傷付いてくれるなら、どんなにか大切にすることだろう。中から歪みが蓄積し、病虫に食い荒らされていき、気付いた時にはボロボロ、もう取り返しの付かない状態になっている。人間が魂の抜けた瞬間に突如として唯の重い肉と化す様に、ふっと壊れて、それきりだ。腫れ物に触るような扱いは良くないけれども、土嚢袋のように投げたり縛ったりしていいものでもない。自分自身に対するように触れればいいのだ。自分と同じ様に、優しく、大胆に。
 人はどうでもいいものにこそ固執する。金で買えるようなくだらないものにこそ拘ってしまう。誰かが用意してくれた御膳、誰かが用意してくれるまで待っている御膳、目の前に出されたそれを無暗に消費して満足する。満腹こそ満足。だから拘る。目に見えるものにだけ拘る。形あるものが真実だと盲信している。形は買うものだから、金に拘る。
 火の正体は何だろう。光と熱。熱は感じる、伝播する。光は反射する、反射して色になる。火は何に反射しているのか。火は何色なのか。見えているのに、その形は掴めない、固定できない。見えるけれど、見えない。大切なものとは、火のようなものだ。

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