【随想】宮沢賢治『貝の火』
大切なものは、失うまでその価値が分からない。大体そういものは当たり前に持っていて、乱暴に扱っても中々壊れないものだから、次第々々に蔑ろにされてゆく。例えば、愛。例えば、時間。分かり易く表面から傷付いてくれるなら、どんなにか大切にすることだろう。中から歪みが蓄積し、病虫に食い荒らされていき、気付いた時にはボロボロ、もう取り返しの付かない状態になっている。人間が魂の抜けた瞬間に突如として唯の重い肉と化す様に、ふっと壊れて、それきりだ。腫れ物に触るような扱いは良くないけれども、土嚢袋のように投げたり縛ったりしていいものでもない。自分自身に対するように触れればいいのだ。自分と同じ様に、優しく、大胆に。
人はどうでもいいものにこそ固執する。金で買えるようなくだらないものにこそ拘ってしまう。誰かが用意してくれた御膳、誰かが用意してくれるまで待っている御膳、目の前に出されたそれを無暗に消費して満足する。満腹こそ満足。だから拘る。目に見えるものにだけ拘る。形あるものが真実だと盲信している。形は買うものだから、金に拘る。
火の正体は何だろう。光と熱。熱は感じる、伝播する。光は反射する、反射して色になる。火は何に反射しているのか。火は何色なのか。見えているのに、その形は掴めない、固定できない。見えるけれど、見えない。大切なものとは、火のようなものだ。
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