【随想】宮沢賢治『虔十公園林』
子供の頃には何の偏見もなかった。変わっている人を変わっているとは思わず、ただそういう人なのだと思っていた。普通の子も知的障害児も何ら分け隔てることなく遊んでいた。会話がうまく成立しなくても、皆と同じことが出来なくても気にならなかった。その子のできることを見付けてそれを自分も楽しんでいた。一緒に遊んであげているという感覚などなかった。時にはからかうこともあったし、喧嘩だってした。知能が低いからからかったのではない、おかしいと思ったからからかったのだ。弱者の反抗が気に入らなかったのではない、痛みに怒りを感じたから喧嘩になったのだ。そこにいたわりや同情など一切ない。他の子と何も変わらない友達だった。当時を振り返り、あの子は楽しかったのだろうかと考えてみることもあるけれど、きっと楽しかったのだと思う。自分への慰めでも、思い出を守るためでもなく、後悔を恐れている訳でもなく、本当にそう思うのだ。彼は笑っていた。彼に嘘の笑顔を作れたとは思えない。
今は知識がある、経験がある。人を分類し、人を区別せずにはいられない。そうしなければ頭を整理できない。老若男女、病人、障害者、地位、実績、収入、財産、無数のフィルターを通してふるい分け、無数の箱にしまう。時々取り出し、比較する、色を塗る、付箋を貼る、一部はより豪華で頑丈な箱にしまい直す。何事も何らかの基準で分けなければ情報がバラバラ錯綜して頭がパンクする。大事な人、関係を保つべき人、保険として付き合う人、どうでもいい人、忘れたい人、様々だ。醜いだろうか。酷いだろうか。仕方ないのだろうか。考え過ぎだろうか。
坂道を登り切った時、曲がり角を曲がった時、ふと顔を上げた時、雲一つないスカッとした青空に心奪われることがある。本当はいつでもそういう心でいたい。