犬の群れで育った猫はまるで犬の様に振る舞う。人に育てられた犬が人の様に振る舞うのはそれは自然な適応なのだろう。そうする事が生きるという事であると体得すれば、それは極自然な日常の態度となりストレスも感じなくなる。人の生活もそうする事が自然な振る舞いとなるまで繰り返せば、平たく言ってそれに慣れてしまえば、不満や不安は感じなくなるのだろう。適応する、順応するというのは生命が持つ傑出した能力ではないだろうか。ある方向性を示してやることにより、無数回の複製増殖の過程が赤を白にも変えてしまう。変わり続ける事が生命の条件であるならば、何を以て個体を個体たらしめるというのか。個とは何か。自己と他を分ける境界などというものは本当に在るのか。まとまって移動し変化する小部分の集合体を特定して個体と呼ぶのだとしても、特定するからにはそこに共通概念がある筈、そういうものだという先入観がある筈、仮にそれは先験的なものだとしても、それも遺伝子の経験に基づく偏見ではないのか。区分する基準を言葉で説明出来ないのなら、それが他者から伝達されたものという事は有り得ない、何故なら言葉無くして概念は表現出来ないから。基準が自己の中にある以上、自己を自己と認識する心は甚だ曖昧な皮膚感覚とでも呼ばれる何かに依存しているのではないか。要するに生物は矛盾した認識の重なりの中に生きていて、生きていると死んでいるとの区別さえ、本当は決定されていないではないか。何だかもう、何が何やら。
以上、己を語らずしてユーモアは成らずと察した迷走する妄想癖者の小演説。