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【随想】芥川龍之介『或阿呆の一生』①

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。唯僕の如き悪天、悪子、悪親を持ったものたちを如何にも気の毒に感じている。ではさようなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。

芥川龍之介『或阿呆の一生』(短編集『河童・或阿呆の一生』)新潮社,1968

彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いている店員や客を見下した。彼等は妙に小さかった。のみならず如何にも見すぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」
 彼は暫く梯子の上からこう云う彼等を見渡していた。……

同上

 狂人たちは皆同じように鼠色の着物を着せられていた。広い部屋はその為に一層憂鬱に見えるらしかった。彼等の一人はオルガンに向い、熱心に讃美歌を弾きつづけていた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云うよりも跳ねまわっていた。
 彼は血色の善い医者と一しょにこう云う光景を眺めていた。彼の母も十年前には少しも彼等と変らなかった。少しも、――彼は実際彼等の臭気に彼の母の臭気を感じた。

同上

「きょうは半日自動車に乗っていた」
「何か用があったのですか?」
 彼の先輩は頰杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗っていたかったから」
 その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。

同上

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

同上

 なに、簡単なことなんだ。要するに、生きている実感が欲しいのさ。しかしこれが中々どうして、手に入らない。いつだって、いつまでも、ぼんやりとした生活感の中にいる。自分は何者か、生命とは何なのか、嫌でも考えさせられるよ。どれだけ考えたところで、答えなど出るわけがないのにね。意識的に意識の手綱を掴んでいないと駄目なんだ。油断すると自分がどこかへ飛んで行きそうなんだよ。いや、自分なんてあるのだろうか。のっぺらぼうの仮面の下は、やっぱりのっぺらぼうなんじゃないか。不安で仕方ないよ。自分らしき肉体から遊離していきそうな自分らしき意識が怖くて、せめて肉体の痛みを感じたくて、必要以上に自分を傷付けてしまうんだ。酒も、性も、金も、喧嘩も、全部そうだ。平常以上の刺激を求めて、馬鹿をやるんだ。こういう奴を、馬鹿って言うんだってね。それでいいさ。ああ早く、最後が来ないかな。これ以上何も無いって、そんな事態にならないかな。崖みたいに、ぷっつりと途切れた時空間に向かって、否応なく背中を押されるんだ。それって最高だろう? 君だって、そうじゃないのか。本当は、気付いているんじゃないのか。何も、何も無いってことを、どこかで予感しているんじゃないのか。何、違う? そうか、それはいいね。それならいいんだ。水より確かで、ゼリーより不確かな、そんな体感の人生を、これからも続ける……、誰も与えてくれない、恋も、愛も、まるで頼りない、まして自分なんて、無いよりマシですらない、そんな、そんな人生を、これからも……? ああ、せめてこの猿芝居の幕引きだけは、この手でやらせてくれ……。

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