【随想】太宰治『右大臣実朝』③
人は自身のアイデンティティの多くをその属するグループから引き出すようだ。性別、人種、出身、家庭、学校、職場、収入の高低や容姿の良し悪しなど。富裕層、貧困層、美男美女なども謂わば一種のグループである。自分が属しているグループが通常そうするであろうと期待されている振る舞いをなぞり、そうした単なる模倣行為を自分の個性であると信じている人は実際かなり多いのではないだろうか。
むしろ真に独立した、純粋にその個人に由来すると認められる性質・特徴といったものなどそもそも存在しないと考える方が自然である。
そうなると何をもって個別的性質とし何をもって個人と定義されるのかということが問題になる訳だが、これは生物学的或いは社会科学的といったような学術的な定義が仮に在るのだとしても、学識の無い庶民の実生活上に落とし込めるような単純なものでは無いことが容易に想像され得るし、であれば、庶民にとってはそれは存在しない、つまり無意味も同然であるから、結局世界の大部分を占める人間にとって個性という概念などあっても無くても同じ、むしろ無い方がすっきりさっぱり気持ち良く生活を送れそうではある。
現代では、個性を持たぬ者はつまらぬ者、極端に言えば人間に非ざる者という暗黙の圧迫的脅迫的認識の下に教育が為されており、人々は日々自身の個性の獲得と強化に余念が無い。有りもしない幻を求めて汗水流して粉骨砕身、心の安寧さえ犠牲にして右往左往し手足をバタバタ振って駆けずり回っている。全く馬鹿らしいことこの上無い。
個性だの自立だのという幻想がいったいどれだけの人間を苦しめていることだろう。その上周囲に溶け込み立派な人間関係を築けといったことまで要求するのだ。周囲と同じ振る舞いをしつつ自分らしい個性も身に付けなさいなどと土台無理な話なのにだ。現代社会は個人に求めるものが多すぎる、その基準も高過ぎる。99.9%は凡人である。凡人には凡庸な生き方しかできないし、実際それで十分だろう。立派な能力は立派な人間だけが持てばいい。全員平等なんて期待過剰で息苦しい。個性が大切なんてどこのどいつが言い出したのだ、はっきり言ってそいつは大馬鹿野郎だ。人間個人には大した価値も創造力も無いという事実にいい加減目を向けるべきではないか。本当に大切なのは個人の充実ではない。人間社会にはお互いに理不尽な邪魔はしないという約束一つあればいい。それ以上求めてはいけない。
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