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【随想】太宰治『右大臣実朝』③

御予言とはいえ、ただ出鱈目に放言なさったのがたまたま運よく的中したというようなものはなく、そこには、こまかな御明察もあり、必ずそうなるべき根拠をお見抜きなさって仰出されるのに違いございませぬが、けれども凡愚の者に於いては、明々白々の根拠をつかんでいながらもなお、予断を躊躇し、或いは間違いかも知れぬ、途中でまたどのように風向きが変らぬものでもない、などと愚図愚図してあたりを見廻しているものでございまして、それが厩戸の皇子さま、または故右大臣さまのようなお方になると、ためらわず鮮やかに断言なされて的中なさらぬという事はないのでございますから、これはやはり、御明察と申すよりは、御霊感と名づけたほうがよろしいように私たちには考えられます。

太宰治『右大臣実朝』(『惜別』)新潮社,1973

「あの人たちには、私のように小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男というものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。私はあの人に底知れずさげすまれているような気がする。あんな、生れてから一度も世間の苦労を知らずに育って来た人たちには、へんな強さがある。しかし、叔父上も変ったな。」
「お変りになりましたでしょうか。」
「変った。ばかになった。まあ、よそう。蟹でもつかまえて来ようか。」

同上

やたらに官位の昇進をお望みになるのも、それだ。京都の人に、いやしめられたくないのだ。大いにもったいをつけてから、京都へ行きたいのだろうが、そんな努力は、だめだめ。みんな、だめ。せいぜい、まあ、田舎公卿、とでもいうような猿に冠を着けさせた珍妙な姿のお公卿が出来上るだけだ。田舎者のくせに、都の人の身振りを真似るくらい浅間しく滑稽なものは無いのだ。都の人は、そんな者をまるで人間でないみたいに考えているのだ。

同上

 人は自身のアイデンティティの多くをその属するグループから引き出すようだ。性別、人種、出身、家庭、学校、職場、収入の高低や容姿の良し悪しなど。富裕層、貧困層、美男美女なども謂わば一種のグループである。自分が属しているグループが通常そうするであろうと期待されている振る舞いをなぞり、そうした単なる模倣行為を自分の個性であると信じている人は実際かなり多いのではないだろうか。
 むしろ真に独立した、純粋にその個人に由来すると認められる性質・特徴といったものなどそもそも存在しないと考える方が自然である。
 そうなると何をもって個別的性質とし何をもって個人と定義されるのかということが問題になる訳だが、これは生物学的或いは社会科学的といったような学術的な定義が仮に在るのだとしても、学識の無い庶民の実生活上に落とし込めるような単純なものでは無いことが容易に想像され得るし、であれば、庶民にとってはそれは存在しない、つまり無意味も同然であるから、結局世界の大部分を占める人間にとって個性という概念などあっても無くても同じ、むしろ無い方がすっきりさっぱり気持ち良く生活を送れそうではある。
 現代では、個性を持たぬ者はつまらぬ者、極端に言えば人間に非ざる者という暗黙の圧迫的脅迫的認識の下に教育が為されており、人々は日々自身の個性の獲得と強化に余念が無い。有りもしない幻を求めて汗水流して粉骨砕身、心の安寧さえ犠牲にして右往左往し手足をバタバタ振って駆けずり回っている。全く馬鹿らしいことこの上無い。
 個性だの自立だのという幻想がいったいどれだけの人間を苦しめていることだろう。その上周囲に溶け込み立派な人間関係を築けといったことまで要求するのだ。周囲と同じ振る舞いをしつつ自分らしい個性も身に付けなさいなどと土台無理な話なのにだ。現代社会は個人に求めるものが多すぎる、その基準も高過ぎる。99.9%は凡人である。凡人には凡庸な生き方しかできないし、実際それで十分だろう。立派な能力は立派な人間だけが持てばいい。全員平等なんて期待過剰で息苦しい。個性が大切なんてどこのどいつが言い出したのだ、はっきり言ってそいつは大馬鹿野郎だ。人間個人には大した価値も創造力も無いという事実にいい加減目を向けるべきではないか。本当に大切なのは個人の充実ではない。人間社会にはお互いに理不尽な邪魔はしないという約束一つあればいい。それ以上求めてはいけない。

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