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【随想】太宰治『陰火』
列車のとどろきが、すぐ背後に聞えた。女は、ふっと振りむいた。男もいそいで顔をうしろにねじむけた。列車は川下の鉄橋を渡っていた。あかりを灯した客車が、つぎ、つぎ、つぎ、つぎと彼等の眼の前をとおっていった。男は、おのれの背中にそそがれている女の視線をいたいほど感じていた。
(中略)
女はけれども、よほど遠くをすたすた歩いていたのである。白い水玉をちらした仕立ておろしの黄いろいドレスが、夕闇を透して男の眼にしみた。このままうちへ帰るつもりかしら。いっそ、けっこんしようか。いや、ほんとうはけっこんしないのだが、あとしまつのためにそんな相談をしかけてみるのだ。
僕は、ああ妹だなと思ったので、おはいりと言った。尼は僕の部屋へはいり、静かにうしろの襖をしめ、木綿の固いころもにかさかさと音を立てさせながら僕の枕元まで歩いて来て、それから、ちゃんと坐った。僕は蒲団の中へもぐりこみ、仰向けに寝たままで尼の顔をまじまじと眺めた。だしぬけに恐怖が襲った。息がとまって、眼さきがまっくろになった。
「よく似ているが、あなたは妹じゃないのですね」はじめから僕には妹などなかったのだな、とそのときはじめて気がついた。「あなたは、誰ですか」
「あなた。私がここへ現れたとき滑稽ではなかったかしら。如来の現れかたにしては、少しぶざまだと思わなかったでしょうか。思ったとおりを言って下さい」
「いいえ。たいへん結構でした。御立派だと思いましたよ」
世界は共通しているのではない。重なっているのだ。だから私の世界とあなたの世界とで法則が幾分違ったとしても、それは驚くことではない。私に見えているものがあなたには見えないとしても全然悲しむことはない。過去も未来も犬も猫も人間も全部ごちゃ混ぜになって今目の前のこの光景を構成している。一瞬で創られて、次の瞬間には消え去って、その瞬間にまた創られる。壮大なアニメーションなのだ。
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