
【随想】宮沢賢治『フランドン農学校の豚』
豚は実にぎょっとした。一体、その楊子の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、風に吹かれた草のよう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔して、眺めていたが、とうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった。いきなり向うの敷藁に頭を埋めてくるっと寝てしまったのだ。
晩方になり少し気分がよくなって、豚はしずかに起きあがる。気分がいいと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のようにさくさくし、青ぞらのように光るわけではもちろんない。これ灰色の気分である。灰色にしてややつめたく、透明なるところの気分である。さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。
「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をして貰えまいか。」
「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。
「それはほんの小さなことだ。ここに斯う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私儀永々御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡仕るべく候 年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長殿 とこれだけのことだがね、」校長はもう云い出したので、一瀉千里にまくしかけた。
「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押して貰いたい。それだけのことだ。」
全体どこへ行くのやら、向うに一本の杉がある、ちらっと頭をあげたとき、俄かに豚はピカッという、はげしい白光のようなものが花火のように眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。天上の方ではキーンという鋭い音が鳴っている。横の方ではごうごう水が湧いている。さあそれからあとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌を持ち、息をはあはあ吐きながら、少し青ざめて立っている。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなっていた。
有機生命と無機物に本質的な違いは無い。どちらもただの物質である。動く動かないは問題ではない、機械だって自動で動き続ける。意思の有無も問題ではない、意思など神経回路を走る電気信号に過ぎないし、各種内臓器官や骨格筋肉も機械によって代替可能である。尤も現代文明が持つ科学技術では現に存在する生物の完全再現は不可能だが、それも時間の問題である。いずれ少なくとも物理的には自然物と人工物を全く区別することが出来なくなる。例えば畜産は有機生命を取り扱う産業であるが、資源を投入及び加工して人間の用に供する製品に仕上げて売却し利益を得るという意味で、機械工業となんら差異はない。牛も豚も鳥も魚も植物も機械も同じことである。敢えて言うのなら、その形態が人間に近いほど感情移入され易いという違いがあるだけだ。
故障した自動車を廃棄することと、人型のロボットを廃棄することは、何も変わらない筈だ。その筈だが、人型ロボットをカッターで細断、大型プレスで圧縮し、溶鉱炉で液体金属に戻す様子に、人は何かいたたまれないものを感じる。何故か、自分と似ているからだ。この先人工知能はより生きた人間に近いものになっていく、また既に部分的には人間を遙かに超える能力を示している。外見を人間に似せることは容易いのだから、そこに自然な発声と運動能力が加われば最早人間そのものである。しかしあくまで工業的に製作された無機物なのだ。どう区別すればいい。そもそも区別が可能なのか。人間のように考え、会話をして、運動する物体を、どう見ても人間にしか見えない物体を、人間ではないと納得できるだろうか。法的な定義を与えることはできるだろう。しかし言葉は目に見えない。人は自身の感覚で経験していないものを心から信じることはできない。
人類はこれまで科学をがむしゃらに発展させてきた。しかし遠くない将来に、倫理の発展が最大の課題になる時が来る。その時、ずっと蔑ろにしてきたものの真価が問われるだろう。
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