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【随想】太宰治『姥捨』

「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。けれども、私は、いい子じゃない。いい子は、いやだ。なにも、私が人がよくて女にだまされ、そうしてその女をあきらめ切れず、女にひきずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱い人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知っている。私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁が切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれども、それを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いや、おまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男は、くるしいくるしい言ったって、ポオズだ、身振りだ、と、軽く見ている」

太宰治『姥捨』(短編集『きりぎりす』)新潮社,1974

 おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。

同上

 街には人の数をゆうに超える無数の生物が共生しているのに、その生きている姿を視認する頻度に比べて、死骸或いは死にゆく姿を見る事は極めて稀だ。彼らは意図的に死を隠蔽しているように思える。彼らには人の知らない秘密の死に場所があるのか、それとも死骸は他の生物によって瞬時に片付けられてしまうのか、いずれにせよ、人が行き交う街中で最後を迎える事は殆ど無い。まるで人以外の生物には人間には死を見せないという黙約があるかのようだ。少なくとも明らかに死期を選択、調整している。人の中では未だに明確な答えや共通認識が見出されていない死に関する諸問題について、彼らは人よりも遙かに高度な知見と覚悟、及びその解答を持っており、且つその実行を為しているのではないだろうか。

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