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【随想】太宰治『誰も知らぬ』

「ええ、わかって居ります。あいつら二人をぶん殴って、それで一緒にさせるのですね。」
 兄さんはそう言って屈託なく笑って帰りましたけれど、私は勝手口に立ったままぼんやり見送り、それからお部屋へ引返して、母の物問いたげな顔にも気づかぬふりして、静かに坐り、縫いかけの袖を二針三針すすめました。また、そっと立って、廊下へ出て小走りに走り、勝手口に出て下駄をつっかけ、それからは、なりもふりもかまわず走りました。どういう気持であったのでしょう。私は未だにわかりません。あの兄さんに追いついて、死ぬまで離れまい、と覚悟していたのでした。芹川さんの事件なぞてんで問題でなかったのです。ただ、兄さんに、もいちど逢いたい、どんなことでもする、兄さんと二人なら、どこへでも行く、私をこのまま連れていって逃げて下さい、私をめちゃめちゃにして下さいと私ひとりの思いだけが、その夜ばかり、唐突に燃え上って、私は、暗い小路小路を、犬にように黙って走って、ときどき躓いてはよろけ、前を搔き合わせてはまた無言で走りつづけ涙が湧いて出て、いま思うと、なんだか地獄の底のような気持でございます。市ヶ谷見附の市電の停留場にたどりついたときは、ほとんど呼吸ができないくらいに、からだが苦しく眼の先がもやもや暗くて、きっとあれは気を失う一歩手前の状態だったのでございましょう。

太宰治『誰も知らぬ』(短編集『新樹の言葉』)新潮社,1982

 この記憶が消えてしまえば、それでもう世界から永遠に消えてしまう物語。唯一人が知っていて、唯一人によって完結される物語。独り言だ。呟きは誰にも聞こえない。この耳に響いて、神経を少し刺激して、それで終わり、それだけの話。独立した事件、唯一人の事件。共有された事件とは明らかに性質を異にする、解決しない事件。目撃者も関係者も共犯者も被害者も加害者もいない、刑事も検察も弁護士も裁判官もいない。唯一人の事件、何が起きたのか、それがどうしたのか、その後どうなったのか。孤立した感覚、共存しない感覚。砂の流れは、集合意志があるようでいて、それぞれが、それぞれに、それぞれを、為している。唯一人。此処に、其処に、唯一人。彼岸へ渡る人、唯一人。

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