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【随想】芥川龍之介『玄鶴山房』
玄鶴の一生はこう云う彼には如何にも浅ましい一生だった。成程ゴム印の特許を受けた当座は比較的彼の一生でも明るい時代には違いなかった。しかしそこにも儕輩の嫉妬や彼の利益を失うまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめていた。ましてお芳を囲い出した後は、――彼は家庭のいざこざの外にも彼等の知らない金の工面にいつも重荷を背負いつづけだった。しかも更に浅ましいことには年の若いお芳に惹かれていたものの、少くともこの一二年は何度内心にお芳親子を死んでしまえと思ったか知れなかった。
「浅ましい?――しかしそれも考えて見れば、格別わしだけに限ったことではない」
彼は夜などはこう考え、彼の親戚や知人のことを一々細かに思い出したりした。彼の婿の父親は唯「憲政を擁護する為に」彼よりも腕の利かない敵を何人も社会的に殺していた。それから彼に一番親しい或年輩の骨董屋は先妻の娘に通じていた。それから或弁護士は供託金を費消していた。それから或篆刻家は、――しかし彼等の犯した罪は不思議にも彼の苦しみには何の変化も与えなかった。のみならず逆に生そのものにも暗い影を拡げるばかりだった。
歳を重ねて得たのは畢竟、積み上がった後悔の山だった。それは増える一方で、決して減らないし、まして都合良く貴重な宝物に変わったりなどしない。肉体的にも精神的にも不快なそれらは、時を経て、多少乾いたり色褪せたりはするものの、どこまでも汚物でしかなかった。
生き続けると、陳腐な幸福も幾つか手に入るけれど、いかんせん陳腐だからすぐに愛で飽きるし、それよりも強烈な悪臭を放ち、掴むと爪の中までぞぞっと潜り込んでくるアオミドロの塊のような不幸が、心の中に膿のように溜まっていく。生きることは、後悔をコレクションすることに他ならない。
老人は、他人の話を聞かない。老人は、自分の放った言葉も聞こえていない。老人は、魂の腐海の中に沈んでいる。老人は、嫌われる。当然、嫌われる。老人は、世界に拒絶される。老人は、それでも死なない。老人は、死ぬまで死なない。老人に、なるか。老人に、ならないか。老人よ。哀れな老人よ。老人は、独立せねばならない。
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