すみれ

文章の練習がてら、noteはじめました。

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最近の記事

霧深き六甲山

 バスの降車口が開きひんやり湿った空気が肌を撫でた。霧雨の六甲山に降り立つと、池に突き刺さった逆さまの車と、そこから生える木でできた巨大なキノコが目に飛び込む。キノコはチカチカした光を放ち宇宙と交信しているようだ。突如立ち現れた夢のような光景に、私はまるで「千と千尋の神隠し」のように神々の世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚する。  異様な光景の正体は、「六甲ミーツアート」という現代アート展のインスタレーションだ。六甲山では、毎年秋になるとこの展覧会が開催される。鑑賞

    • ノルディック柄のセーター

      ノルディック柄のセーターが欲しい。 その想いは、おそらくずっと私の中にあった。きっと最初の記憶よりもっと前から。 けれど、その想いをはっきりと自覚したのはこの冬、森星ちゃんのユーチューブを観てからだ。 緑色のたっぷりとしたセーターはショートヘアの小さな頭によく似合っていて、それをきた笑顔の彼女は、とても堂々としていて怖いものなんて何一つないように見えた。 それ以来、私はビビッとくるノルディックセーターを探し続けているのだ。思いが昂じて、居酒屋に居合わせたハゲたおじさんが着て

      • ゴッホ展⑥ 夜のプロヴァンスの田舎道

        『夜のプロヴァンスの田舎道』の美しさは計り知れない。 オパールのような星の光、紺青の夜空、黄色の畦、水色の道の色彩のバランス、オブジェのような糸杉。 これほど美しい絵なのに、この絵を観て私はムンクの「叫び」を思い起こし、胸がざわついたた。その原因は「うねり」だ。ぐにゃぐにゃした道と、大きくうねった筆の跡が残る夜空、そして画面中央に煙のようにゆらりと立っている大きな糸杉。「うねり」が孕む動的エネルギーは静止画の印象を剥奪する。そして、「うねり」はどうしても人を不安な気持ちにさせ

        • ゴッホ展⑤ 種蒔く人

          オランダ時代、「収穫」の題材を好んで描いていたゴッホは、南仏でついに『種蒔く人』に着手する。 正面を向き軽やかにステップを踏んだミレーの構図と同じである。異なるのは、ミレーが画面いっぱいに大きく農夫を描いたのに対し、ゴッホは大きな太陽と、広大な畑を主役としたところだ。「ゴッホにとって、太陽は神に等しかった」と言われるが、なるほど確かに彼の描く太陽は中世の宗教画の光輪のようにビビッドではっきりとした輪郭をもっている。その力強い光は畑を美しく染め、農夫の背をあたためている。農夫

        霧深き六甲山

          ゴッホ展④ レモン

          それにしても、レモンはどうしてこれほど強い生命力をみなぎらせているのだろう。 高村光太郎の『レモン哀歌』、梶井基次郎の『檸檬』、米津玄師の『lemon』…。太陽をたっぷりと浴び、その果肉を固く瑞々しく凝縮させたあの果物は、時代も国も超えて、生命力の象徴である。そしてそれは、絶望に近ければ近いほどより強い。 『檸檬の籠と瓶』において、ゴッホはレモン自体をビビッドに描くのではなく、それが置かれたテーブルクロスや背景の壁を、さらに明るい黄色で塗りつぶした。彼は、レモンを描いたので

          ゴッホ展④ レモン

          ゴッホ展③ 収穫

          豊かに実った作物を前に、少し前屈みの農夫が後ろ姿で描かれている。 オランダ時代のゴッホの「収穫」は、おそらくミレーの「種蒔く人」のオマージュだ。 ミレーの『種蒔く人』は、背筋をぴんと伸ばし、まだ何もない畑を前にステップも軽やかに生命の種を蒔いている。農夫が蒔いている種は、もちろん穀物そのものの種であるが、同時に我々自身の生命の種でもある。広大な未来を前に種を蒔く。粛々と、そして堂々と。 ゴッホの「収穫」は、「生きることの崇高さ」という点でミレーに共鳴しながら、正反対のもの

          ゴッホ展③ 収穫

          ゴッホ展② 老人

          ゴッホは老人をよく描いた。養老院の男性や年老いた漁師らが持つ深く刻まれた皺や、そこに反射する光を愛した。皺は、人生を生き抜いてきたことの証だからだ。 「コーヒーを飲む老人」「読書をする老人」は特によかった。肘掛けのない椅子に前屈みで腰掛け、目を伏せ自分の世界に入り込んでいるその様は、まるで瞑想だ。初期のゴッホが描く老人は、激情からほど遠い、僧侶や老木のような趣きがある。 若く悩み多きゴッホにとって、老人は「境地」に到達したブッダのような存在であり、それゆえに歳を重ねることへ

          ゴッホ展② 老人

          ゴッホ展感想①

          苦しみの中で絵を描き続けるという行為は、踠き・足掻きと同義である。 ゴッホは、とてつもない苦しみを生き抜こうとした人物だ。 彼は孤独だった。孤独ゆえに、自分の感性を、生きる意味を、生きる実感を、どうしようもなく希求し続けていた。 彼は有り余るエネルギーを持っていた。それがゆえに、津波のような感受性をもつ自分自身のつかみどころのなさ、コントロールの難しさに苛立ち、混乱し、探究心を刺激され、多くの自画像を描き、20年間という短い画家人生の中でその画風を劇的に変化させたのではない

          ゴッホ展感想①

          『推し、燃ゆ』考察

          私には、推しがいない。 それだからか、初めて本書を読んだとき、前半部をコメディあるいはオタク文化の専門書のように楽しんでしまった。 しかし、読み進めていくうちに言いようのない閉塞感とエネルギーを感じ、その原因は何なのか探求したい欲求が湧き上がってきた。 また、オタクの友人と感想を交換することでも無限に新たな発見がある本書を強く推したく、現段階での考察と感想をまとめたい。 1.ネバーランドの出現 2.「推す」ということ  2−1 初期ー生き甲斐  2−2 後期ー苦行 3.推し

          『推し、燃ゆ』考察

          『種まく人』を観て

          まるで知識はないのだけど、最近美術が好きだ。 (そもそも、私は昔から絵を見ることも描くことも好きだったのだ。中学の美術で、評価「2」をとって以降、少し心の距離をあけていたけれど。) 東京に来て以来、そこかしこで開催されている美術展に興奮し、あちこち巡っては部屋の壁をポストカードまみれにしていっている。 さて、そんな私だが、先日の山梨旅行でミレーの絵をみる機会に恵まれた。 ワインに温泉、ほうとうそれからマスカット…どれをとっても最高だったが、山梨県立美術館所蔵の『種まく人』は

          『種まく人』を観て

          「しお」がみたい(熱海旅行でみた猫がかわいかったので)

          暖かな秋の昼下がり、散歩コースは決まっている。 落ち葉がつもってふかふかとした地面を踏みしめながら、まずは公園をひと回り。安眠と惰眠でなまっている腰と肉球にはこれくらいの動きだしがちょうどいい。 次に有刺鉄線がはりめぐらされた古びた日本家屋の石塀をそうっと歩く。これはなかなかのスリルが味わえて悪くない。もっとも、塀の内側の家にそうまでして盗みたいものがあるようにはとても思えないのだけれど。カニカマもツナ缶もありそうにない。唯一年季のはいった木によく熟した柿がひとつポツンと実っ

          「しお」がみたい(熱海旅行でみた猫がかわいかったので)