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「しお」がみたい(熱海旅行でみた猫がかわいかったので)

暖かな秋の昼下がり、散歩コースは決まっている。
落ち葉がつもってふかふかとした地面を踏みしめながら、まずは公園をひと回り。安眠と惰眠でなまっている腰と肉球にはこれくらいの動きだしがちょうどいい。
次に有刺鉄線がはりめぐらされた古びた日本家屋の石塀をそうっと歩く。これはなかなかのスリルが味わえて悪くない。もっとも、塀の内側の家にそうまでして盗みたいものがあるようにはとても思えないのだけれど。カニカマもツナ缶もありそうにない。唯一年季のはいった木によく熟した柿がひとつポツンと実っているけれど、あんなに高いところにあるんじゃああまりに不親切だ。
有刺鉄線のアスレチックを終えると、向かいのアパートのベランダをひとつひとつ覗いてまわる。合計3部屋。
右端の部屋は明るい茶髪の女子大生。黄緑色のパーカーを着て、基本家ではラジオを流している。
左端は30代くらいの男。短髪で首が太くて、麺類ばかり食べている。
真ん中には20代半ばくらいのOLが住んでいる。インドアなやつだから、遭遇率はナンバーワンだ。毎朝「とぅーどぅーりすと」なるものを作成し窓際の机に置いているのだけど、全ての項目にチェックがついたのをみたことは一度もない。
通りかかると、やつらは窓ガラスに鼻の頭をこすりつけて、「にゃあにゃあ」だの「チッチッ」だのきょうび生まれたての赤ん坊でもしらけるようなやり方でこちらの気を引こうとしてくる。そうまでして構ってほしいのなら、ツナのひとかけでも差し出したらいいのに。気まぐれにかわいがりはするけれど、住みつかれたら困るのだろう。まあ、そこはお互いドライでよろしい。
全ての部屋をのぞき終わると、その日もっとも陽のあたっている公園の石に落ち着き伸びをする。これで散歩は終わり。
人間はこういうのを「はんでおしたようなひび」と呼ぶらしい。どうやらネガティブな意味で使われているみたいだけど、おなじだけ穏やかで満たされた日々が続くのなら、それ以上の幸せはどこにもないじゃないか、と念入りに毛づくろいをしながら思う。


アパートの部屋をみてまわるなんて悪趣味だ、と言いたい気持ちもわかるが、こればかりはやめられない。だって面白いんだもの。やつらの生活を覗いていると、ときに我々猫には想像つかないような瞬間がある。それを発見した時の興奮ときたら、またたびを百本同時に嗅いだ状態に匹敵する。
「右端の女」は、ときたま誰かと電話をしている時があって、そのときの普段より「かれん」な感じが何とも趣深い。一見がさつそうに見える「左端の男」の、几帳面に干された洗濯物をみるのもちょっと感動する。
特に見応えがあるのは「真ん中の女」だ。やつは、お笑い番組を観て歯が全部みえる状態で笑ったり、はたまた目も口もうっすら開けた状態で涎を垂らして寝ていたりするのだけど、でも、ときたま、深い穴にもぐっているような捉えがたい表情になる。その穴の中にとどまりたいのか、抜け出したいのか。毎日、おなじく暖かい日々をおくっている我々にとっては、この表情は実に興味深く、目が離せなくなる。この瞬間に遭遇すると、あるものを思い出す。…そう、行ったこともない海だ。


三丁目に港町からやってきたという猫がいる。じっくり寝かせたはちみつみたいな色をした三毛猫だ。やつは7歳になるまで、てとらぽっとの上を歩いたり、網に干されたイカや魚を味見したり、サラサラの砂に足跡を残したりする生活を送っていたらしい。
ある日、昼寝によさそうな網の上でまどろんでいるとそこは船上で、見知らぬ街に降りたち彷徨っているといつの間にかこの地にたどり着いていたらしい。やつは毛の先っぽが少し黄ばんでいて、海風に長年吹かれていたからかガシガシとした毛並みをしている。そして、なめるとすこししょっぱい。
やつは言う。「海ってやつは面白くて、とてつもなく広くて大きいのに、一日のうちに減ったり増えたりするんだ。よく一日中堤防に寝転んで過ごしていたけど、ずっと下の方にあったと思っていた海が、夕方には前足をのばせばする触れそうな位置にある。目をこらせば、小魚の群れなんかが泳いでたりして、お腹がすいてくる。この水が増えたり減ったりすることを人間たちは『みちしお』『ひきしお』って言うんだってね。こればっかりは一日中、毎日みていたって絶対に飽きないね」

アパートの一室、暖かな秋の午後、陽あたりのいい窓際のソファに座る「真ん中の女」。なにかをコントロールしたいのか、「とぅーどぅーりすと」を書き連ねるやつの瞳は、楽しげなきらめきに満たされたかと思うと、次の瞬間ふっと沈みこんでしまう。

猫は安寧を望む。どこか見たことのない場所に行きたいなんて思わないけど、でも、やつと一緒になら、「みちしお」「ひきしお」を眺めてみたいと思う。
満たされたかと思うと引いていき、引いたかと思うとまた満たされる。ずっと、未来永劫、繰り返される海の流れ。そいつは、やつの瞳のように、僕をひきつけ、愛おしくさえ思わせ、そして普段の暮らしと同じようなゆったりとした気持ちにもさせるだろう。
そして、横で足をブラブラとさせる「真ん中の女」に話しかけてみたい。繰り返されるこの「しお」ってやつは、なかなか見応えがあるね、と。

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