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【神話エッセイ】 かんぴょうと自転車

夏といえば「スイカ」と100人中100人が答える中、ぼくがまっさきに目に浮かべるのは「かんぴょう」である。

かんぴょう?

あの巻き寿司に入っているかんぴょうのことか?

そうです、あのかんぴょうである。

子供の頃、夏休みになるとぼくはおじいちゃんに連れられて自転車で1k先の畑にかんぴょうを取りに行かせられた。かんぴょうを食べた人もかんぴょうの実自体を知っている人は少ないであろう。かんぴょうの生産は栃木県が1位で日本のかんぴょう生産の8割を占めているということである。しかしながら、国内消費のかんぴょうの8割は中国産であることからふつうはなかなかお目にかかれないであろう。

かんぴょうはスイカの2倍くらいの大きさの球体のウリである。当時、自転車の後ろにとろばこを備え付けてかんぴょうを入れて運んでいた。小学生だと1玉がせいいっぱいで、おじいちゃんは一度に2玉載せて運んだ。よって2人で一度に運ぶことのできるかんぴょうは3玉が限界で、それを1日に2~3回繰り返していたから、10個前後のかんぴょうを運んでいたことになる。

かんぴょうの中のたねの部分は使えないので、切って捨てるのだけど、その部分の果肉は白くてぷにぷにしていてさわり心地のいいものであった(あれでウリ臭さがなかったらいつまでもさわっていられたのだけど)。

小学生のぼくにとってかんぴょうを自転車の後ろに乗せながら運転するのはなかなかに難しく、かんぴょうを落とそうものなら大目玉を食らうので慎重に運んだ。おかげで自転車の運転が夏に格段に上がったのは言うまでもない。

家に持ち帰ったかんぴょうをおじいちゃんは両ひざに抱えるようにして固定し、ナイフで上手に薄皮にはいでいく。それは見事なもので、さすがにその作業はぼくには任せられず、おじいちゃんひとりで行っていた。

薄くはいだかんぴょうは竹竿に吊るされ、何日間か干してみなさんが知るようなかんぴょう巻きが出来上がるのであった。ぼくが中学の頃までその作業は続いたので(中学になったら2玉運べるようになったので生産性が上がった)、ぼくにとっては夏の風物詩といえば、どうしてもスイカよりもかんぴょうということになる。おそらくそのような子供は、意外と少ないと思う。全国生産1位の栃木県にそのような記憶を持つ方がいらっしゃったら、友達になりたいくらいだ。




出雲神話の中で穀物の起源を説く神話といえば、スサノオの下界におり下ったシーンがあげられる。

スサノオは下界に下った折に、大気都比売(おおけつひめ)に食物をお求めになった。すると、大気都比売(おおけつひめ)は鼻や口、尻から御馳走を出して料理を差し上げたという。それを見て、スサノオは「汚な!!」と怒り、大気都比売(おおけつひめ)を殺してしまった。

殺された大気都比売(おおけつひめ)こそいい面の皮なのだけど、その死体からは蚕、稲種、粟、小豆、麦、豆が出てきたという。それをカミムスビが集めてタネにしたという。

本来なら、スサノオが穀物の神様と呼ばれてもおかしくないのだけど、さすがにこの話の手前、スサノオが穀物の神様とは呼び難かったであろう。穀物の神様は誰かということは、この物語ではうやむやにさせられている。どうせだったら大気都比売(おおけつひめ)にその称号をあげて、称えたいところである。

この段階ではウリはまだ日本に入ってきていなかったのだろうか。それではウリはいつごろ、日本に食されるようになったのか?

調べてみると、意外に日本にウリが入ってきたのは早く、縄文時代にははやくも栽培されていた形跡が残されている。すると、出雲神話のどこかにもウリの存在が記載されているのかもしれない。もう少し、詳しく調べてみるとしよう。ぼくのように、夏といえばかんぴょうだねという神様がいてもおかしくはないだろう(いないか!?)。

ちなみに悲劇の神様・大気都比売(おおけつひめ)は、島根県石見地方に伝わる伝説によると、大気都比売神の娘に乙子狭姫がおり、雁に乗って降臨し作物の種を地上に伝えたとする。

乙子狭姫

太古の昔、赤に乗って穀物を伝えた狭姫という女神がいた。狭姫の母神はオオゲツヒメといい、身体のどこからでも食物を出すことができた。あるとき、心の良くない神がオオゲツヒメの身体にはどんな仕掛けがあるのかと面白半分にヒメを斬ってしまった。
息も絶え絶えなオオゲツヒメは狭姫を呼び、「お前は末っ子で身体も小さい。形見をやるから安国へ行って暮らすがよい」と言って息を引き取った。と、見る見るうちにオオゲツヒメの遺体から五穀の種が芽生えた。狭姫は種を手にすると、そこにやって来た赤雁の背に乗って旅だった。
を渡って疲れた赤雁が高島(現益田市)で休もうとしたところ、大山祇(オオヤマツミ)の使いのが出てきて「我は肉を喰らう故、五穀の種なぞいらん」と狭姫を追い払った。続いて須津(現浜田市三隅町)の大島で休もうとしたところが出てきて同じように追い払った。
しかたなく力を振り絞った狭姫と赤雁は鎌手大浜(現益田市)の亀島で一休みして、そこから赤雁(現益田市)の天道山に降り立った。更に比礼振山(現益田市)まで進むと、周囲に種の里を開いた。神も人も喜び、狭姫を種姫と呼んであがめた。
ある日のこと、種の里を出た狭姫は巨人足跡に出くわした。土地のものに聞くと、大山祇巨人のことだという。巨人が迫って、土地の者は逃げ出した。狭姫も逃げ惑ったが、小さい身体ゆえどうにもならない。命からがら逃げ帰った狭姫だが、巨人たちがいると安国を造ることはできないと考えた。
赤雁の背に乗って出かけた狭姫だったが、とある山に空いた大穴からいびきが聞こえてくる。「そこにいるのは誰か?」と問うと、「自ら名乗らず他人の名を訊くとは何事だ」と返ってきた。声の主はオカミ(淤加美神)といって大山祇の子だった。恐ろしくてならない狭姫だったが、勇気を振り絞って、では直接お会いしたいと強い調子で申し出ると、オカミは「我は頭が人で体がだから神も人も驚いて気を失うだろう。驚かすのはよくないことだ。それより我が足長土に会い給え」と言って急に調子を改めてしまう。
狭姫は考えた。オカミはを降らす良い神だが、大山祇巨人と足長土[1]はどこかに追いやらなければならない。
赤雁に乗って国中駆け回った狭姫は三瓶山の麓を切り開いて巨人たちを遊ばせることを思いつく。
帰路についた狭姫は巨人の手長土に出会った。「夫はいるか?」と問うと、「かような長い手ですもの」と手長土は自らを恥た。「私も人並み外れたちびだけど、種を広める務めがある。御身にも務めがあるはず」といって、狭姫は足の長い足長土を娶せた。手の長い手長土と足の長い足長土は夫婦で力を合わせて幸せに暮らしたという。オカミは後に八幡の神と入れ替わって岡見にはいないが、今でも時化の前には大岩を鳴らして知らせてくれるという。

乙子狭姫は益田市乙子町の佐毘売山神社にも伝説を残している。佐毘売山とは三瓶山のことで、国引き神話の杭の役目を果たした聖なる山でもある。



今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。  

よかったら、佐毘売山神社にもいらしてください。

母娘ともどもおいしい御馳走を作ってお待ちしていますよ。

では、お待ちしています ♪




こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
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