しばしの別れ
ビッケが亡くなった。
ビッケはぼくに懐いていた飼い猫。子猫のときに交通事故にあい、左前足先を失ってしまった。よって自力でエサを探すことができない。せめてカエルかコオロギを捕まえることができるくらい。必然的に人間に餌をもらうしかない。
家ネコではないのだが、家の周辺で住み着きぼくらから餌をもらって生活していた。そんなネコがなぜかうちの周りにたくさん住み着いている(餌をあげるから住み着いてしまうのは当たり前だという気もする)。しかしビッケはほかの猫と一緒にエサを食べようとしない。ほかのネコがくると逃げてしまう。前足先がなくって不器用なところを負い目に感じていたのだろうか。
だから餌が欲しい時は個人的にやってきて、足に顔をスリスリしておねだりをする。そして小さな声で「みゃ~(エサおくれ)」と訴える。そして足の周りから離れない(時には誤って踏みつけそうになる)。
ほかのネコといるより、人間のほうが安心できたのかもしれない。足元で寝そべっている姿をよく覚えている。きもちよく、いつまでも寝ていたものだ。
ビッケが家ネコだったらどうだっただろうと思うことがある。noteのネコ好きな方の記事を読むと、家ネコは布団の中に入って一緒に寝ることもあるという。ビッケも一緒に寝てくれただろうか。ビッケをまくらにしたり(ひどい!)、お腹に乗せて寝たりできたのかな。
時はあっという間に過ぎていく、だれもにも止められない。
神様なら止めてくれるのだろうか。
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ビッケはもう老ネコだったので、いつ死んでもおかしくなかったのだけど、ここ数日急に弱りはじめ、今日ぼくの目の前で息を引き取った。
ネコは死ぬとき、じぶんから身を隠すという。しかし、どうやらそれは眉唾ものだそうで、ほんとうは危険から避けるため、養生のために隠れるのだという。それが結果として、身を隠すように見えるらしい。
ビッケも身を隠そうとしたのだけど、いかんせん前足がないので思うように前に進めなくってしばらく転んだりしていた。しかし、さらに弱まってくると、倒れたまま後ろ足でなんとか前に進もうともがいていた。それが、なんとも滑稽であり、哀しかった。
結局、ぼくの目の前で動けなくなり、亡くなってしまった。
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出雲神話の世界観を考えると、古代の人々の死生観のようなものが記載されていることに気付く。彼らは死ぬと黄泉の国という地下世界に行くと信じていた。そのため身内が亡くなっても、そのうち自分もそちらに行くからと思うことができた。これは黄泉の国を信じなくなった今でも、割合共有できる感覚であろう。
我々は死ぬとどこへ行くのかわからぬが、亡くなった人に会いたいと思っている。その思いは今も昔も変わらない。
さて、出雲神話には死んでいくところがもう一つあるというのをご存じだろうか。常世(とこよ)の国である。
文献を読んでいくと、どうやら常世の国は海で遭難した際に行く場所のようである。黄泉の国とは明確な線引きがあるようだ。
出雲神話では最初にスクナヒコが常世に旅立っている。このとき大国主命の哀しみは尋常ではなかったという。
ここでふと疑問に思うことがある。大国主命も死んだら黄泉の国にいくのだろうけど、常世の国にはいけないのだろうかということである。常世の国は誰もがいける場所ではないということなのだろう。つまり常世の国にいった場合は、ほんとうに死んでも二度と会えない。だから大国主命は嘆き悲しんだのだろう。
スクナヒコは粟島神社に祀られている。
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今なら、大国主命の嘆きがよくわかる・・・
でも、ぼくとビッケは黄泉の国で会えるはず。あちらの世界は時間もないのであろうから、あっという間にぼくもいく。それまで悲しまずに待っていてほしい。
しばしのお別れだ・・・・
だから、さよならはいわないよ
夕方、ラジオからこの曲が流れていた
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今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
ネコ好きな皆さん、出雲に来た際は野良猫にもやさしくしてあげてください
それではお待ちしています♪
こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
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