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子どもを失うということ

こんにちは。新しい職場で日々忙しく過ごしています。
帰るのは今は大体定時なんですが、家に帰ってから子どもたちの「パパ教えて」や「パパ見て」をこなしていると、なかなかnoteを更新することができない日々です。
でもそんな当たり前の生活が何よりも大事。
今まで私は「失ってから気付く」を繰り返してきた愚か者です。
でも家族は絶対にそうならないように気を引き締めています。
そんな中で今日のタイトルの話を少ししていこうと思います。

・河本千奈ちゃんの事件から1年

発災から2年の記事を読むためにNHK静岡のHPを訪問すると、可愛らしい笑顔の女の子の写真が目に飛び込んできました。
直感で「バス置き去り事件の女の子だ」と分かりました。
彼女が感じた恐怖、苦痛、絶望…どれも想像を絶するものだと思います。
そして同等にご両親のこの1年間も非常に辛く、苦しい日々だったと思います。
そしてその苦悩は時間という薬においても楽になることはないのだろうと思います。
お父様のコメントや記事を拝見しました。「コロナ対策で車内では水筒を飲んではいけない決まりになっていたが、水筒は空だった。生きるために自分で考えることができる子だったんだと思う。」というようなコメントがあり、子どもの成長と今後それが見れない相反する感情が入り混じっているのだろうと感じました。

・決して分かることではない

なかなか書き進めることが出来ません。それは子どもを失う。しかも言ってみれば嬲り殺されたような状況を考えると筆舌に尽くしがたい感情になるし、どんな言葉を使っても言い表すことが出来ないと思うからです。

でも、被災した時の「たられば」がきっと近い感情なのだろうと思っています。
自分は被災した後、何度も何度も「もし嫁と娘が助からなかったら」を考えてしまいました。
瓦礫と土砂に呑み込まれ「パパ、ママ助けて」と声も出せず、涙も叫び声も届かずに絶望の中息絶える娘の姿。
実際は助かった。でも何かがほんの少し違ったら、嫁も娘もいなかった。
その後の自分と息子の人生、どうなっていたのだろうか。
子を失った河本さんご夫妻、失わなかった自分。
そこの差は凄く大きいし、気持ちが分かるなんてとても言えないけど、でもきっと寝る前にいつも苦しんで考えてしまった「もう一つの人生」が多分一番近い感情なのだと思います。

·子どもだから、大人だから

不幸な子どもの死亡事件、事故を見るたびに本当に心が痛みます。
でも大人が亡くなる事件、事故も自分は同様だと思うんです。
誰しも家族があって、仮に孤児だったとしてもそれまでの人生決して一人で生きてきた訳じゃないと思うし、必ず誰かと繋がっている。
そう思うと子どもでも大人でも人ひとりの命を失うことは重たいことだと思っています。

·軽い言葉

警戒区域解除を前にした説明会で道路の拡幅工事について「避難路が1本増える。これで住民の皆さんの命が守られる」としきりに説明していた職員がいました。
ここではあまり批判的な事は書きたくないですが、説明が全く現実を見ていないな。と感じてました。
実際にどうやって避難したか聞き取りもせず、ただただ川の上に1本道を通しただけ。
あの時住民が感じた恐怖、失われた命を全く想像できていない。
きっと河本千奈ちゃんが通っていたこども園の園長もそういった想像力が欠如しているんだと思います。
全員とは言わない。でもあの盛り土に関わった行政も業者も少しは想像してほしいと思っている。

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