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【読書感想】永井みみ/ミシンと金魚

 いつもありがとう。出雲黄昏です。

 自分の人生に意味はあるのか。そんなことをずっと考えてきた。生きていて、楽しいことや嬉しいことはある。つらいことだってある。でもほとんどの時間が、そんな感情に支配されずなんとなく生きている。そこに、意味はあるのか。そもそも意味なんてなくていいのか。自分は何者でありたいか。目指すべき道は、仕事は、結婚は、死に様は。

 迷い、なんとなく自分の中で定めなければならないと考えてしまう、自分の人生の行き先。若いうちからどういう道に進むのか決めておいたほうがいい。大人たちは子供に、「将来は何になるのかな?」平然と問う。子供もまた大人たちが口々にそんなことを言うもんだから、「ユーチューバー」「学校の先生」とか、知ってる数少ない職業を言い、将来の夢、人生の行き先を定めなければならないと薄っすら感じ取っていく。

 次第に子供たちは成長し、進路を迫られ、よく見えてこないやりたいことをやりたいことだと自分自身に押し付けて、結果、多くは失敗する。そしてまた迷う。迷うことになれてしまった大人になって、その渦中、自分は不幸だとか悲観的になってみたり、反対に、よく考えたら自分は幸福だ、だってマズローの欲求5段階説からして自分は上位の欲求を欲している。あるいは貧困国や、戦時下の日本と比較して……なんて、不幸を補完して本物かわからない幸福感を得てみたりして揺れる。子供のころに見ていた景色が歪み、真実らしき物に近づいていくけれど、この不足感は解消されない。そんな現代人が量産されている気がしてならない。少なくとも、自分はそうだ。

 しかし本作と出会い、どんな人生であっても、「人生」そのものが、良いものかもしれない。漠然とそう感じるのはなぜだろう。

 

 ひとりの女性が最期を迎える終末の物語。認知症から身体的な不自由。肉体と精神、それらの末路が、壮絶な人生録と共に衝撃的な文体で綴られた、第45回すばる文学賞受賞作にして、永井みみデビュー作『ミシンと金魚』。

 読後感を噛みしめ、まだ目の熱さを感じながら、この作品がぼんやり見えてきた。……人生っていいもんかもしれない。じんわりハートが柔らかに温もってくるのを感じる。

 語り手が認知症の老婆ということで、不安定さが際立つ。もちろん良い意味で。認知症なうえお喋りで、信用できる語り手なのか読み手としても危うさが常に隣合わせ。スリリングでいて、独特な読み味になっている。

 主人公は現代的な視点から見れば壮絶で悲惨な人生だった。その人生は大きな後悔も懺悔もあるけれど、どこか軽妙に語られる。主人公はなぜここまで軽妙に語ることができたのか、それは当時の感情までも受け入れられるくらいの時間が経過し、風化した記憶。というにはニュアンスが違う、……難しい。例えばすごく嫌なことがあって、そのときは人生の終わりくらい落ち込むけれど、その出来事も自分の中で角がとれて喉元過ぎれば、円熟味のある物へと成り変わる。そんな感じ?わからんけどそんな感じで、主人公本人は、軽いとも重いとも違う、淡々としているけれど、パワーのある語りで壮絶な過去、そして現在を紡いでいく。

 印象的だったシーン。主人公が遺言書を書かせられようとされ、ボールペンを持ち、いざ書こうとするシーン。

  当然できるとおもってたことが、しらないあいだにできなくなってる。軽々できるとおもってたことが、できなくなってる。点ポチの横に、水が、たれる。その水は、涙だ。じっさいは鼻水だけれども、きもちで言えば、立派な、涙、だ。

永井みみ『ミシンと金魚』集英社文庫

 文体や段落のつけ方が特徴的で、やや読む人を選ぶかもしれない。すべて地の文で構成されている。だからこそ、独特な段落のつけ方がアクセントになっていて、クセの強い文体とのパワー配分が施されすらすら読めてしまう。言葉を選ばず言えば、まるで珍味的な読み味で酒がすすんで仕方ない。といった具合に。 

 良い人生とか悪い人生とか、人生の意味とか、幸か不幸かとか、そんな評価軸で考えている時点で、己の浅さを自覚した。

 人生とは何か。どう生きるべきか。新書に書いてあるような納得感のあるものではない。ただ、そこに肉薄するだけの凄味が本作に宿っているように思えてならない。納得感なんて、なくていい。

 これからの人生も迷うと思う。
 この一冊が手元にあることは、自分にとって幸運なことだと思える。


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