ジェンダー多様性を深く考えたら、何が正しいのかわからなくなった。
友達の名前の後につけるのは、
「さん」なのか「くん」なのか「ちゃん」なのか。
「今は小学校でも”さん付け”する指導がされているんですよ」
今日の福祉サービスや放課後等デイサービスの事業所職員との研修でのグループワークで”相手をどのように呼ぶか”こんな会話がありました。知らなかった。
何だか今は「さん」と呼ぶのが当たり前なんですね。
小学生でもクラスメイトを「あだ名」で呼んだり「呼び捨て」にしたりせずに、「さん」を付けて呼ぶように指導する小学校が増えている理由として、あだ名で呼ぶのは「いじめ」に繋がるケースがあるから。
そして、「ジェンダーレス」の時代背景からその様な指導になっているようです。
そもそも、男性と女性を区別する「くん」と「ちゃん」はなくした方が良いという考えもよくわかります。
また、女性・男性を決めつけない「さん」と呼んでおけば、無意識に相手を傷つけることはなくなるということもわかります。
でも、うーん、
何となく違和感を感じてしまうのは何故だろう。。
私は、ジェンダーレス・ジェンダーフリーの考えは肯定している。
だけど、その意味をちゃんと理解しないまま、小さい頃の「呼び方」までも大人がルール化してしまっていいのだろうか。
男女格差の解消や多様性を認め合う社会が当たり前になりつつある。
男女に限らない、セクシュアリティの多様化も進んでいます。
「さん付け」で統一していくのは、多様性を認めあう社会にするためには必要なことなのだろうか?
うーん、やっぱりよくわからない。
何となく深く考えていたら”多様性を認め合う”というより”多様性を薄めてしまっている”ようにも思ってしまったのです。
「どっちでもいけるぜ」っていう便利な単語がたくさん増えてく気がするなぁ。セクシャルマイノリティー当事者にとってはその方が心理的には安心だと思うし。
女性であっても、「くん」と呼んで欲しかったり、そして「くん」って周りが呼ぶのが当たり前だったら自分の事を「ぼく」と言っても何の違和感はない。
初対面ではその人の性自認がわからないから「さん」と呼ぶだろう。
けど友だちの間では、「ぼく」や「あたし」、「くん」や「ちゃん」などが男性女性関係なく使われていた方が、多様性が当たり前になっていくようにも感じた。
「”さん”で統一していきましょう」より、男女関係なくあなたは「なんて呼んで欲しいの?」が当たり前になる社会の方がいいような気もしました。
とりあえずまだ、周りに流されて「こうだ!」と決めつけないでおこうと思いました。