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善助漂流記(その3)
(あらすじ)天保12年(1841年)、善助たち13名を乗せた永寿丸は犬吠埼沖で難破した。太平洋をさまようこと約4カ月。永寿丸はスペイン船エンサーヨ号に救助され、全員無事にメキシコのカリフォルニア半島に上陸した。
(物語 その3)
カボ・サン・ルカスに降ろされた善助たち7名は、数日後にサン・ホッセという村に船で送られた。そこで他の2名とも合流し、13名のうち9名がサン・ホッセ村に集まったのである。
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(佐野芳和『新世界へ 鎖国日本からはみ出た永寿丸の十三人』より)
サン・ホッセ村の役人の取り計らいで、9名はそれぞれ村人の家に引き取られて寄宿することになった。
善助はコマンダンテ・フランシスコという人の家に引き取られた。この人物は、州知事であり軍の総司令官も兼ねていた。善助は当地の最も有力な人物に引き取られ保護されることになったのである。
これは善助が若いながらも「船長」であり、乗組員を率いるリーダーであることが認められて、それ相応の待遇を受けたのではないかと思われる。
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「お役人さま~」。 みんな洋服を着ている。
どれが善助だろう?
(善助の報告を紀州藩がまとめた『東航紀聞』より。以下同様)
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これは村人の結婚式の様子を描いたもの。
コマンダンテは善助の頭脳明晰さと高い能力をすぐに見抜いた。善助の保護者であり州の最高権力者でもある彼は、約1カ月後、善助を州都のラ・パスに自ら連れて行った。
かくして、善助はラ・パスのコマンダンテの屋敷で暮らすことになった。
コマンダンテはいつも善助を連れ歩いた。先生に付けてスペイン語を習わせたりもして善助を教育し優遇した。
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(善助の報告を紀州藩がまとめた『東航紀聞』より。以後同様)
そしてついには、コマンダンテは善助に自分の娘の婿になり後継者になるよう望むまでになった。
しかし、善助は故郷に帰りたかった。その望郷の念は断ちがたく、日本への帰国を強くコマンダンテに乞い願った。
故郷の紀州周参見には53歳になる父久五郎と、父とは1つ違いの母世紀が待っている。早く故郷に帰りたい!毎日切々と訴えたという。
やがて、マサトランの港に行けば、東南アジア行きの船便があるという情報が入った。とうとうコマンダンテも善助の熱意に折れた。無事に善助が船便に乗船できるよう、マサトランの役人宛に親書を書いてくれた。心優しい州知事であり軍の総司令官だ。
別れはラ・パスの浜辺で行われた。別れの時、コマンダンテは自分の指から鼈甲の指輪を抜き取って善助の指にはめた。
「これを私と思って、行くのだよ」
もう一生涯会うことはないだろう。この時は善助もコマンダンテを実の父親のように思えてきたという。書いているだけで涙が出て来そうだ。
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善助は左から3人目。帽子を脱いでいる。
今まさにコマンダンテが善助に形見の指輪を与えようとしている。
もう一生涯会うことができない永遠の別れ。
善助はコマンダンテと涙の別れをした後、マサトランに行って5ヶ月ほど滞在した。船便を見つけるのに時間が必要だったのである。
その間に、永寿丸の乗組員だった初太郎も善助と一緒に日本に帰ることになった。初太郎は善助よりも1つか2つ年上の同年代の若者だった。
ここで再会できるとは。
「親方!」(善助は親方と呼ばれていた)
「初やん!」
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木の棒にぶら下げている赤い魚は鯛だろうか?
1842年12月、善助と初太郎はようやく東南アジア行きのアメリカ船に乗り込むことができた。そしてマカオを経由して日本への帰国の途についたのである。メキシコの浜に漂着してから8ヶ月が経っていた。
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(『亜墨新話』四国大学 凌宵文庫より。)
ふたりの胸にはメキシコで暮らした日々の想い出が一杯詰まっていたことだろう。ふたりは船のなかでどんな話をしたのだろう?
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(善助の報告を紀州藩がまとめた『東航紀聞』より。)
1844年1月(天保14年12月)、善助と初太郎はついに長崎に着いた。当時はまだ鎖国中だったので、外国船はみな長崎に寄港したのである。
犬吠埼沖で難破してから2年2ヶ月が過ぎていた。善助は24歳になっていた。それでもまだ若い。
ペリーが浦賀沖に来航したのはこの9年後のことである。時代は大きな転換期を迎えていた。
・・・次回に続く
(参考文献)
1.佐野芳和『新世界へ 鎖国日本からはみ出た永寿丸の13人』
法政大学出版局、1989
2.和巻耿介『天保漂船記』毎日新聞社、1977
(注)
ここに掲載した図版は全て、
(佐野芳和『鎖国 日本ハポン 異国 MEXICOメヒコ 難船栄寿丸の13人』
メキシコ・シティ発行、1999)のページを西岡が写真撮影したもの。