善助漂流記(その4)
(あらすじ)紀州は周参見生まれの若き船頭善助の物語。ラ・パスの浜辺で保護者コマンダンテと涙の別れをした5か月後、善助は初太郎と共にマサトランの港からアメリカ船で出航し、マカオを経由して、ついに長崎に着いたのだった。時は1844年1月(天保14年12月)。
( 物語 その4)
善助は長崎に1年以上留め置かれた。奉行所でいろいろ取り調べられたうえ、踏み絵もさせられたという。鎖国という国法を破った犯罪者扱いである。翌1845年3月1日に善助は、ようやく長崎から故郷の紀州周参見に帰還することができた。
海外の事情に関心が強かった紀州藩は、隠居中の前藩主治宝が自ら善助を引見した。治宝は善助の希にみる能力を観て取り、藩士に命じて善助にインタビューさせ、漂流やメキシコでの事を詳細に記録させた。
外国からの来航が増えて脅威になっていたこの時代、海に面した諸藩は海外情報の収集に苦心していた。特に徳川御三家のひとつである紀州藩にあってみれば、生の海外情報は、喉から手が出るほど欲しかったに違いない。
こうして纏められたのが『東航紀聞』全10巻である。
メキシコで善助の保護者になったコマンダンテといい、紀州藩の前藩主治宝といい、どうやら、ひとはみな善助を一目見るなり、その溢れ出る才気に目を奪われるらしい。
異国で暮らした経験を持つ善助に対する藩の評価は高く、藩の役人に取り立てられ、帰国の7年後には紀伊半島最先端の地の正役人となった。もう立派な士分になっていた。船乗りが当時の支配階級である士分に列せられたのである。井上の姓を賜り「井上善助」と名乗った。
さらに酒造免許も与えられ、生活も安定した。長崎で犯罪者扱いされた時とは大違いだ。人生つらいこと事もあれば幸せなこともある。人間万事塞翁が馬とはこのことだ。
1853年(嘉永6年)浦賀沖にアメリカのペリー提督が来航し開国を求めた。そして翌年にもペリーは再来し「日米和親条約」の締結に至った。善助はその度に江戸表に呼ばれ、ペリーが徳川将軍に献上した100点余りの物品を鑑定した。
それはたとえば蒸気機関車の模型、電信機、六連発銃、洋酒、図鑑などなどである。メキシコでの生活が役に立った。本当に人生何が幸いするか分からない。
1867年(慶応3年)、善助は46歳で引退した。故郷の周参見に帰った。翌年は明治となる。武士の時代が終わろうとしていた。
明治になってからの善助は、大地主として桑畑を経営するわ、酒造業や漁業を営むわ、手広く事業を展開した。明治という新しい時代を迎えて、善助が若い頃に培った商才が一気に花開いた。リスクを犯してまで日本に帰って来た甲斐があったというものだ。
1874年(明治7年)10月29日善助はその生涯を閉じた。1821年(文政4年)生まれというから、享年53。決して長いとは言えないけれども、持ち前の才覚と勇気で苦難を乗り越え、自分の道を切り拓き、波乱万丈の人生を生き抜いたといえる。
お墓は今もすさみ町の万福寺にある。墓の裏には、「アメリカからマカオに渡り商船で遂に天保14年12月に長崎に帰ってきた」と、その足跡が刻まれている。
メキシコに漂着した永寿丸の13人のうち、日本に帰還した者は善助を含めて5人。残りの8人は帰っていない。メキシコ、チリ、中国などに永住したという。それぞれの事情や理由があったのだろう。
( 善助のふるさと周参見について )
紀州口熊野周参見浦が善助のふるさとである。今は和歌山県西牟婁郡すさみ町と呼ばれている。西牟婁郡は「にしむろぐん」と読む。紀伊半島の南端、白浜と串本の中間に位置する海岸沿いの町だ。
木が枯れるほど海からの潮風が強烈なので「枯木灘」と呼ばれている。中上健次の小説『枯木灘』の舞台にもなった。妻もここで生まれ育った。
もしも、善助が生きて日本に帰って来てくれなかったら、私は妻とめぐり逢うことができなかった。
私たち家族の命の恩人である。
・・・次回につづく。
(注)
ヘッダー画像はペリー提督に関する『ウィキペディア』掲載の写真を転載・編集したもの。