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「遅さ」に重点を置こう

 先週の記事では、決断することに疲れているのではなく、合議することに疲れ、忌避しているということや、『蜻蛉日記』を引用しながら、合議することの重要性について話を進めてきた。
 教員も自らの悩みや煩悶を生徒に開示し、同時に生徒の声も聴きながら対話を形成していく。単声的な教室・学校づくりではなく、複声的な教室・学校づくりを進めていくべきなのではないか。

 しかし、前回の記事の最後で提示したように、ただ合議を図るだけではなく、なんらかの「制限」をかけながら合議を図る必要がある。どれだけ教員が生徒の声を「対等」な立場で聴こうと思っても、教員の権威性、特権性を完全に払拭することはできない。生徒との信頼関係をどれだけ築いたとしても生徒と教員は完全に対等な関係にはなれない。というよりは、生徒と教員は対等ではないからこそ、学校の中での信頼関係を築けるのかもしれない(この辺りは他の記事で考えたい。教員の特権の必要性は認められるべきか否か)

 生徒と教員が対等になれないのであれば、対等な合議も形成することはできない。非対称性を前提とした合議を進める中で、特に教員が気を付けなければならないことはなんなのだろうか。
 結論からいえば、「遅さ」を重視できるか、というところにある。

共通の物差しが存在しない時代

 生徒に限らず教員同士でも、合議することを忌避する要因として「議論をするからには、何かしらの結論に至らなければならない、解決策を見つけ出さなければならない」という強い強迫観念が挙げられる。

(近代世界では)価値観・世界観は、単に多元化しただけではない。それらは、相互に比較不能である。つまり、異なる価値観・世界観を比較して優劣をつける共通の物差しは存在しない。

長谷部恭男『憲法とは何か』P.8(岩波書店、括弧内は論者によるもの)

 このようなポストモダン世界の特徴を著した書物は数多ある。私たちが生活する世界では、各人の価値観を比較し、優劣をつけることは不可能である。それがゆえに、共通の「理念」を探すための努力を「徒労」と捉えてしまいがちになる。「人それぞれ違うし、客観的な真理なんてこの世界には存在しないのだから、各人に共通した目指すべきものを探しても見つからない。それゆえに、合議をすることなんて無駄でしかない」と考えてしまう。
 確かにこの言葉も正しい。客観的な真理は存在しないし、完全に合致した主観を各人で共有することも不可能だ。では、合議する必要はないのか?

個人が変容し、価値観を醸成するための「遅さ」

 そこで記憶にとどめておきたいキーワードが「遅さ」というものだ。学校現場で起こる議論において、この遅さという言葉はいろんな角度から適応させることができる。
 そもそも、「議論」は「個人の中で既に形成されている価値観や主張を出し合って、結論を見つけ出す」というものではない。議論の中で、それぞれの個人が他者に対して言葉にしたときに、初めて価値観は形成されるのである。もちろん、既成の価値観はあるものの、自分が話しているうちに自分で考えたこともないような領域までたどり着くことができたり、他者の言葉を受け入れることで価値観の変容が起きたりする。
 つまり、議論においては「それぞれ違う、既成の価値観の中から共通項を見つけて、それを『理念』と名指しをする」という現象ではなく、「議論を行う中で、それぞれの参加者が自らの言葉や他者の言葉によって変容し続けながら、その議論における『価値観』をリアルタイムに形成する」という現象が可能なのではないか。
 この現象を可能にするためには、単に結論を急ぐことは「正義」ではない。議論の中で個人が変容していくためには、たっぷりとした時間が必要となる。自らの言葉を自らがかみ砕く時間、他者の言葉を自らの言葉でかみ砕く時間、見えていなかった自らの言葉を見つけ出す時間、参加者の誰もが議論の前に持っていなかった言葉を醸成する時間…。変容し、集団で新しい価値観を形成するためには、議論の遅さが重要なのである。

生徒の結論を遅らせる

 生徒との議論でも同じことが言える。生徒は、たとえば授業の中で考察したり、小論文を書いたり、教室で議論をする中で、最初に思いついた答えに飛びつくことがままある。もちろん、最初の答えも正しいこともあるが、思考としては深みを有していない。教員の大事な仕事としては、生徒が結論を出すことを遅らせることだ。
 生徒の出した結論(らしきもの)は、まだ考える余地があるのではないか。別の角度から考えられるのではないか。違う観点と比べたら新しいものが見えるのではないか。
 もしかしたら視点を変えて、生徒が提示した結論を基にして、教員が持っている結論を相対化してもいいかもしれない。そういったときは、教員自ら「自分はAだと考えていたけど、確かに〇〇さんの言葉を聞くと、そういった視点から考え直す必要がある」というように、自らの変容を開示することでさらに議論を活性化できる。

 学校における合議では、結論を導き出すことよりも、そうした議論の遅れの中で価値観が変容し、集団の中で新たな価値観が醸成されていくことを経験することのほうが大切だ。もちろん、労働の中では迅速かつ的確な決断をしなければならないときもくる。しかし、迅速な決断力は、遅い議論の経験の中で養われていくはずだ。多角的に自分の意見を反芻する経験の豊かさが、いざというときの迅速さ・的確さの発揮に繋がっていく。

 また、結論を急げば急ぐほど、教員の固定された価値観が一方的に生徒に伝わる可能性が高くなる。いわゆる「トップダウン型」になりがちだ。確かにスピードにおいてはトップダウンに勝る形式はない。しかし、それではあまりにも教員が特権性を謳歌してしまう。教員は、自らの価値観を押し付けるのではなく、議論を遅らせるという形でその権力を発揮すればいい
 権力にも使い道はある。生徒とは違った立場で議論に参加する上では、教員の権力性は有効なはずだ。

議論は遅いほうがいい

 焦って結論を出そうとすることで、そうした経験を逸してしまう。もしくは、「議論をする上では、それぞれ価値観が違うにもかかわらず急いで結論を出さなければならない」という強迫観念に駆られて、そもそも合議をすることから逃避してしまう。しかし、議論はそういったものではない。
 各々の価値観は議論することで初めて判明し、判明した価値観は議論の中で常に変容し得る。
 既成の価値観の共通項が理念なのではなく、理念は議論の中で新しく創造されるものである。
 こうした現象は議論の「遅さ」に起因するものである。

 こうした議論の「遅さ」をそれぞれの参加者が共有できれば、議論することのハードル自体も下がるし、よりよい経験をすることも可能になるはずだ。議論をする上で相手の価値観を無理やり捻じ曲げる必要もないし、自分の価値観を固定する必要もない。ゆらゆらと漂いながら、じっくり時間をかけて合議に臨めばいい。そうすれば、「合議疲れ」も和らぐかもしれない。

学校現場における「遅さ」の適応範囲

 この「遅さ」というキーワードは合議の上だけにしか適応されるものではない。学校教育を考える上で、様々な場所に適応させることができる概念だ。次回の記事では、今回に続いて「遅さ」という言葉を軸に、学校教育を振り返っていきたい。

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