「親ガチャ」から公正な自己責任の実現へ
「親ガチャ」という語へのもどかしさ
私も「親」という属性を帯びているため、メディアで「親ガチャ」という言葉が流布したとき、複雑な気持ちに襲われた。
確かに親はガチャだ。子は絶対に生まれてくる親を主体的に選択することはできない。「親ガチャ」は「生まれる」という動詞の本質を見事に突いている。突いているけど、でも「親ガチャ」という言葉を無条件に肯定する気にもなれない。親はガチャではない、と言いたくなる私がやはりいる。しかし、この語の的確さに対して明確な反論をすることがなかなかできないでいた。
その突破口がたまたま見えたのがつい先ほど、ジョン・ロールズについての親書を読んでいた時だった。やはり読書をする中で様々なアイディアが思いつく。読書は単に他者の思考を追随するだけではない。その中で、私の中に蓄積されている、それでいて読んでいる本とは直接的に関係しないような課題を解くアイディアが時折「降ってくる」のである。
その突破口というのは、「親ガチャ」という言葉自体への反論ではなく、「親ガチャ」という言葉が流通する背景だ。なぜ「親ガチャ」という語に触れたとき、何を考えるべきなのか。
自己責任が果たせない社会
齋藤・田中(2021)によれば、ロールズは主著である『正義論』の中で「偶発性」について次のように論じているという。
ロールズの述べるように、人々の人生のあらゆる場面は偶発性によって彩られている。「親ガチャ」はロールズの定義によれば「社会的偶然性」に該当するだろう。「親ガチャ」が流布するずっと前から、誰のもとに生まれるか、という偶然性は認識されていた。しかし、「親ガチャ」という語が流布する社会ではその偶然性の認識が希薄であるように思える。ロールズが『正義論』を著して50年経った今、ようやく家庭という「階層」が「親ガチャ」という語によって可視化されたのである。
では、可視化された階層に対して社会はどのような態度をとっているのか。策を講じているのか。結論から言えば、策を講じるどころか、その階層によって生じる格差を拡大させ、さらに格差によって生じる不利益の責任を個人に帰する。
ロールズは「社会」が引き受ける「責任」について次のように論じている。孫引きになるが、引用する。
ロールズは、自己責任を完全に廃するということはしてない。社会が公正な機会の平等を確保する責任を果たしていれば、その社会の中の個人は自らの目的を果たすという責任を引き受けることができる。では、現代社会は、果たして「公正な機会の平等を維持すること」に対しての責任を果たしているのだろうか。この社会を見渡せば、その逆、機会の平等を毀損すること、が散見される。
11月末に東京都で行われた中学校英語スピーキングテスト(ESAT-J)は、まさにその象徴であろう。試験対策・実施・採点・高校入試への利用など、どの点をとっても公正さが担保されていない(実施主体である東京都教育委員会も、試験の問題点を認めながらも強行し、このまま高校入試に利用しようとしている)。公正な試験を実施できないのであれば、ロールズが論じるように、個人が「自らの目的や願望」を実現させようとする責任を負うことができない。自分自身の進路を選択することに対して、社会の側から重大な障害が設定されてしまっている。
しかし、入試で自分の思うような結果が出せなかったときは、社会の責任ではなく、個人の責任へと帰せられる。自己責任を謳歌できる社会でないのも関わらず、自己責任を謳歌させられる。完全に矛盾している。
教育の格差は社会的階層の格差を再生産する。
ジェンダーバイアス・ジェンダー間における差別もまた然りだ。「女性はいまだに劣位に立たされている」と窮状を述べれば、「女性差別はすでに存在しない。活躍できていない女性は、女性という社会的属性に甘えているだけだ」と、自己責任に帰せられる。あらゆる属性の人が公正に活躍するための責任をまったく果たしていないにも関わらず。人は自らの身体を選んで生まれることはできない。どのような性に生まれたとしても、機会を平等に享受できる社会を作らなければならないのに、まだその実現には程遠い。それどころか、再び性別役割分担の傾向が強まっている。ロールズの思想とは正反対の方向に社会は向かっている。
「親ガチャ」の文脈に則せば、虐待児童に対する支援も十分とは言えない。社会の耳目が虐待に集まったこともあり、認知件数は年々多くなっている。しかし、虐待児童の保護や、対応にあたる児童福祉施設の設備、および児童福祉士の育成などはなかなか進まない。「子は産んだ親が育てなければならない」という強固な固定観念も、行政による家庭への支援を阻害している。(北海道のあすなろ福祉会の件に対する世論を見ると、「責任を負えない親は子供を産むな」という言説が多くみられる。子どもは社会全体が支えるのであって、親はその一端を担うに過ぎない。しかし、まだ子と親をその二者の結びつきに閉じ込める思想は蔓延っている)。
さらに悪いことには、「親ガチャに外れた、と嘆くのは甘え」、「自分の努力次第で親ガチャから抜け出せる」という「親ガチャ」すらも自己責任に帰する言説すらも存在する。親を選ぶことは絶対にできないにも関わらず、その親に生まれたことを断ずる。どんな社会なんだよまじで。
諦めの抵抗の狭間
そのような社会の中で人々が「ガチャ」という言葉に頼るのは、これら社会の公正さの欠如に対して、強い諦念を抱いているからに他ならない。スマホゲームのガチャは、当たりとはずれがあり、ガチャを引いてしまったら出た結果に対して何もアプローチすることができない。
公正さが担保されていれば、そもそも「当たり」と「はずれ」という概念すら必要がない。「親ガチャに当たる」という考え方もあってはならない。誰の元にうまれても、どの地域に生まれても、機会の平等さえあればガチャ性が発生することはない。しかし、前節で論じたように、社会の様々な場面で平等が毀損されている。そして、ロールズもキーワードにしている「自尊」(セルフリスペクト)が失われ、「親ガチャ」という嘲りを含んだ語に縋るしかなくなる。自分の社会的不利をそのままにはしたくない。したくないけど、どうやっても抜け出せない。でも、黙って泣き寝入りはしたくない。せめて、この窮状を何か言葉にしなければ。そこで生まれたのが「親ガチャ」だった。
ロールズは「互いに平等な者として尊重されるべき市民が偶然性ゆえに劣位の立場を強いられないようにすること」を重要視している。偶然性ゆえに生じてしまった不利を事後的に補償するだけでは、平等を維持することはできない。平等を保つことで、各市民の政治的コミットメントに繋がっていくと論じている。
「自己責任」という言葉を、今一度考え直さなければならない。どこの誰に生まれたとしても、自分の人生に希望を持ち、「自尊」の心情を持ち、自分の目的を果たすための責任を負えるような社会。そんな公正な自己責任を負うことができる社会であれば、「親ガチャ」という語彙は消える。公正さを達成するために私たちにできることは何か。