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怒りは才能発揮に転換できる

「やってらんねーよ!!!」
絶叫し、激情に任せた私の足に蹴られて、壁に穴が空いた。
周囲の「優等生たち」は唖然としていたと思う。たぶん。
その勢いで、私はドアを乱暴にバタンと閉め、
2階から1階の階段を勢いよく駆け下りた。

この場所に私が行くのは最後になった。

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先日、中学校時代の友人Eから、30年振りくらいに連絡がきた。
FBで私を探したらしい。
実は以前、私はEの名前でFBやGoogleで検索したこともあったが、見つけられなかった。

それもそのはず。
結婚して英語表記になり、昔の名前では検索できなかったのだ。

このEと私は中学時代、
共に悪さをしていて(笑)、記事で書くのも憚られるくらいだ。

私のいた中学は、受験で入る形式で、
当時、札幌では一番入るのが難しかった。
この中学の卒業生のほとんどが、道内の高校で一番偏差値が高かったM高(第一学区)、第二学区で一番のK高に大量合格するようなところだった(現在は学区分けが廃止になったらしい)。

私は中学時代、奇異だったと思う。どうにもこうにも私は「優等生たち」に馴染めなかった。
優等生を生み出す仕組みに対して、言葉にできない怒りを抱えていた。
「受験戦争に勝ってほしいと願う親の期待通りにはなるまい」と思っていた。
「世間の優秀と言われる基準に合わせることは、普通を受け入れ自分の敗北を意味する」とも思っていた。

なので、私は授業中は絶対にノートをとらないことにした。
授業は一切聞かないことにしていた。
でも、成績はよかった。
(小学生の時に中3までの大方の勉強を終わらせていた)

今考えると、中途半端だ。
本当に反抗するなら、テストを白紙で毎回出すくらいでないとダメだ。

授業は一切聞かないことは徹底していたが、
テストの前日に一夜漬けすることも徹底していた。

「偏差値の高い高校に入るために内申をよくしようと勉強する日本中の優等生たち」
「それを期待する日本中の親たち」
もっと言うと「日本の教育構造そのもの」への反抗もあったと思う。

私はあなた達のように授業は聞かないけれども、
結果はあなた達より出してみせます、という意地。

くだらないし、浅い(笑)。
結局、テストの点数を、例え一夜漬けでも高くしようとする時点で、制度に組み込まれてしまっている。

こんな風に奇妙なこじらせ具合だった私とEは、「学校に居場所がない」という点で馬があったのかもしれない。

Eは附属小から中学に上がっていて、
中学受験組だった私とは、ちょっと違うタイプだった。
でも、お金持ちのお嬢様で、ませていて、夜遊びをするという意味では、優等生たちから完全に浮いていた。

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Eと最後に会ったのは、18才。
高校を卒業して東京に家出中だった私は、東京に出てきていたEと何度か会った。
ただ、家出して住み込みの新聞配達をしていた貧乏な私と、
親のお金で遊べるEとは、環境が違いすぎて、いつしか音信不通になった。

そのEから30年振りにFBメッセージが来たのだ。
それは驚くべき内容だった。

「実は娘の中学受験が終わり、由美子の話を娘にしたのをきっかけに、ずっとしていなかったFBを開いてみました」
「由美子が幸せになっただけではなく、たくさんの人を幸せに導いていると知って、流石だなぁと思ったし、同時に由美子なら当然だなと思いました」
「由美子を見つけるなんて無理かなと思っていたけど、たくさんいる佐藤由美子の中で1番輝いていたので、すぐに見つかって感動しました」
「娘に私の知っている中学校の頃の由美子の話をよくしていました……絶対に何者かになっているはず、と」
「想像以上だったから本当に嬉しかったです」

えっ……。
娘さんの中学受験がつい最近終わり、私の中学時代を話していた、とあるが、文脈からして「由美子=肯定的な意味合い」で語られているっぽい。

ちょっと待て💦
私の中学時代の話は、受験を控えている子供に、最もしてはいけない話ではないか。
と、混乱したのだ。

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話は冒頭の場面に戻る。

この数秒前、私は塾講師からこう言われたのだ。
「佐藤。オマエ、出ていけよ」

この塾講師は、たしか北大院生だったと思う。
私は、北大増進会という、当時高校受験では北海道一の勢力を誇る塾に通っていた。
この塾は「普通クラス」「特設クラス」「超特設クラス」と分かれていて、超特設クラスは試験を受けて入る必要があった。

私はこの「超特設クラス K大学前」に通っていた。
来ている生徒は、私の中学の同級生・札幌の各中学校のトップ成績者たち。

このクラスは、塾主催で全道模試をした時、
数百ものクラスの「クラス毎の平均点」で常にぶっちぎり1位だった。

クラスの全員がM高合格を目指していた。
私以外は……。

私は目的を見失っていた。
学校でならまだバランスをとれていたのだが、
塾は目的が「M高合格」しかない。

一体何のために来ているのか、わからなくなっていた。
そして、同級生たちとちょっとふざけて、授業中に手紙を回したり、消しゴムのカスを投げ合ったり……と、たわいもない悪戯で時間をつぶしていた(優等生でも、ややふざけた生徒も中にいたのだ)。

女子たちが「ムカつく」と言っていた塾講師がいた。
今考えれば、生真面目だったし、大人目線で見たら「しっかり仕事をしよう」という意識があったタイプだ。

でも、中学の頃は、真面目さより「面白さ」「わかってくれる度」で先生の好き嫌いが分かれる。

その講師は前者だった。

ある日、講師が黒板に書いているスキに、私たちはいつものように、消しゴムのカスを投げて、クスクス笑ったりしていた。

もともと私たちはその講師によく怒られていたのだが、
遂にその日、その講師は爆発した。

急に後ろを振り向き、
「オマエら、何しにここに来ているんだ?」
と怒鳴ったのだ。

当然だと思う。
真っ当だ。

細かいやり取りは忘れたが、その講師は、普段から反抗的な態度が目立っていた私を集中攻撃した。

「佐藤。オマエ、出ていけよ」

冷静にこう言われた私は、
今までの色々なあれこれが一気にこみあげてきて、
机のモノをカバンに詰め込み、部屋から出て行った。

出ていく直前に
「やってらんねーよ!!!」
と叫び、壁に蹴りを入れたのだった。

ドアを閉め、路面に続く階段を一気に駆け下り、後ろを振り返ると、やはり誰も追いかけてこなかった。

14才の頬に夜風は容赦なく冷たかった。
左足の裏がジンジン痛む。

翌日。
私の悪行は、全道の数百もの塾全部に知れ渡ることになる。
「退塾処分
超特設クラス K大学前 ~中3年 佐藤由美子」

張り紙で一斉に告知されたらしい。
陸上部で鍛えた私の脚力で、壁には申し訳ないことをした。
(器物損壊罪ですね。申し訳ありません💦)

退塾処分になったことを親に言ったのかは覚えていない。

それから受験真っ只中の時期に入り、
私は親の言うことを聞かないで、自分の行きたい高校に行くことを貫いた。
「陸上部が強いから」ともっともらしいことを言ったものの、
本当にその高校に行きたいわけではなかったと思う。
「一番難しい高校に入ってほしい」という親の願いを「絶対に」叶えてやらない。
それが一番の理由だった。

だから、高校に入っても、
私の中の未消化の感情はずっと燻っていた。

高校に入ってからは遂に本当に勉強しなくなり、
大学受験も全然解けなくて、試験途中で帰ってきた。

それで親と大喧嘩になり
「出ていけ!」と言われ、売り言葉に買い言葉。

「出て行ってやる、こんな家!」と、再び私は啖呵を切り、2000円だけ持って東京に家出した。
デジャブかっ!

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そんな経緯を全て知っているEが、中学受験をする娘さんに、なぜ私の話をしたのか。

ひょっとして
「由美子は自分の意志で未来を選択しようとしたんだよ」
というニュアンスで「親に言われたからではなく、自分の意志で中学校を選びなさい」という感じなのだろうか。

真相は、今度直接会って聞こう。

中学生の頃の私は、異常だったと思うし、
「レールに敷かれた道は絶対に進まない」
という、一見ポリシーとも思えるが、その実「世間の基準とは逆へ」「親の言いなりにはならない」が目的で何も中身が伴っていなかった。

私は18才で東京に家出して、5年、家に帰らなかった。
東京で「自分が一番やりたいこと」に出会いたかったが、遂に出会えなかった。
ただただ不毛に時間が過ぎていった。

その時の数年を『少年の道草』という題で小説を書こうとして、途中で辞めた。

一体私は何になりたかったのか?
人生の道草のその後……その答えが出せなかったからだ。

私が人生の迷子になっている間、かつての同級生は順調に一流大学を卒業し、一流会社に就職していった。

あれから20数年。
なぜか今の私は、人生の悩みを解決するコンサルタントをしている。
「子どもが反抗する」「子どもが何をしたいのか答えを見つけ出せない。心配です」
というご相談はもちろん、
30代40代の方が「本当は何をしたいのかわからないです」と相談される。

その度に、かつての私の姿を何度も見る。
あなたは私だ。

子どもが親に反抗するのはいいと思う。
徹底的にやりきったらいいと思う。
大人が自分探しをするのもいいと思う。

私は自己受容・自己肯定感を育てる10秒スイッチというメソッドを開発したり、人生を好転させていく仕事をしているが、心底思う。

「怒りのエネルギーを大切にしてほしい」

怒りは創造に転換できる最も効率のよいエネルギーだから。
創造のエネルギーは自分のオリジナルの才能を発露させる。
ただ、10代の私は転換の仕方がわからなかったのだ。
親や先生や壁に(笑)発散していた。

怒りの根源は何か?と考えたとき、
「自分は何者なのか」という問いなんだと思う。

その答えを知っている人は、怒りを創造にいくらでも転換できる。
何度でも。

自分は何者なのか、の答えは実は「愛」でできているからだと思う。

今、何かに怒っている人がいるのだとしたら。
自分が何者なのかを知る旅を始めるときなのだ。あるいは、何のために今までの体験があったのかを振り返り、改めて自分の人生の意味を読み解くタイミングだ。重要な出来事の根底に流れる共通のシンボルが浮かびあがってくる。

人生が全力で問いかけてくるものの答えを、見つけられる日が来る。

怒りが深い分、悩みが深い分、「問い続ける限り」ある日、答えに辿り着く。

私は今、答えを知っている。14才の時の自分にその答えを教えてあげたい。
そして、あの時の塾の先生に謝りたい。そしてお礼も伝えたい。
あの日から私は自分が何者なのかを知る旅を始めたのだ。

そろそろ『少年の道草』の続きを書こうか。

PS
私は今でも「怒り」を瞬時に創造のエネルギーに転換することをやっています。
その度に、思いがけないアイディアがいつも降りてきます。
詳しくは『シンクロちゃん』の10秒スイッチに書かれています。
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