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仏教好き主婦、世界的僧侶とお寺を語る(前編)

私はこの夏、「お寺の広報部」として起業しました。起業したのは、お寺をもっと盛り上げたい!仏教を伝えたい!という思いから。しかし、その気持ちが強くなればなるほど、いくつかの悩みや疑問が浮上。そんな折、以前よりポッドキャストを聞いていた僧侶・松本紹圭さんと、幸運にもお会いする機会をいただくことができました。今回は、そこでの対話内容を皆さんと共有したく記事にまとめました。記事公開の経緯については【後編】の最後にも捕捉しますので、もしご興味がありましたらご覧ください。

【お断わり】
今回の話は、松本さんが10年以上前から「未来の住職塾」などで繰り返し議論し、ブログやポッドキャストでもお話されてきたことだと思います。なので、話題は目新しいものではないかもしれませんが、私が一般信徒として感じている仏教、お寺における課題を松本さんにぶつけた内容を皆さんにもご覧いただき、私たちのより良い未来に貢献できれば幸いです。

【松本紹圭さんプロフィール】

松本紹圭(まつもとしょうけい)/僧侶。1979年、北海道小樽市生まれ。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leaders。武蔵野大学客員教授。未来の住職塾代表。株式会社Interbeing代表取締役。東京大学哲学科卒、インド商科大学院(ISB) MBA。Forbes JAPAN(フォーブスジャパン)2023年6月号で、「いま注目すべき『世界を救う希望』100人」に選出。

最新著書『日常からはじまるサステナビリティ 日本の風土とSDGs』よりプロフィールを一部引用

ーお寺のどんな価値を守りたいのか

古川
今日は、お忙しいなかお時間をいただきありがとうございます。私は5年ほど前、ちょっとしたきっかけがあって仏教に興味を持ち、2023年に西本願寺で帰敬式(仏弟子となり法名をいただく儀式)を受けました。同じ年、広島仏教学院の聴講生として1年間就学し、この夏「お寺の広報部『てとら』」という個人事業を立ち上げたところです。具体的な仕事はまだこれからですが、お寺のチラシや寺報をデザインするのが主な内容です。

松本さん(以降、敬称略)
仏教やお寺が好きで、知るだけでなく、お寺を応援したいという気持ちにもなってきたんでしょうか?

古川
そうですね。まず、仏教好きの仲間を増やすためにインスタを始めました。その後、同じくインスタをしている地元のお寺さんとつながることができて、若い人向けの法話会などを企画するようになりました。ほかにもマルシェや坐禅会(曹洞宗)など、思いつくイベントを開催しました。これらの活動はほぼボランティアなのですが、そのままでは当然続けることはできなくて。別の仕事をしながらボランティアをするよりは、やはりこのような仏教に関することを仕事にしたいと思って起業しました。
それで、いろんなお寺さんに話を聞く機会も増えてきたのですが、聞けば聞くほどお寺の今後が見えないなと感じるようになりました。10年後、20年後、次の世代の人たちが新しい門徒・檀家として入ってくるかというと、かなり疑問で。私自身も、今後「月参りに来てください」などとお願いするとは正直思えません。ただ、お寺のような【身分や肩書が関係なくなる場所】が街の中にたくさんあるのはすごいことで、できるだけ無くなってほしくないと思っているんです。
松本さんの言葉で言うところの、お寺の「二階建ての一階部分」がかなり危ないのでは、と思っているのですが、私のアタマでは何も思い浮かばず。どうしても、一度松本さんと直接お話ししてみたいというのが思い余って、突然ご連絡してしまいました。

松本
いえいえ、ようこそ。どんなお話ができるかなあと思っていますが。もちろんボランタリーにできることには限界があるし、本気でやるためにも個人事業化するというのは大事なことだと思います。お寺にもいろんな側面があると思いますが、古川さんはその中のどの部分、あるいはどのような価値を守りたいと思っていますか? お寺という建物を守りたいのか、教えを守りたいのか……。

古川
以前は「教えが伝わることが一番大事」だと思っていました。でも、お寺に足を運ぶ回数が増えるにつれて、建物や歴史、美術などにも価値を感じるようになりました。きれいなお庭も、ご門徒さんや檀家さんしか見ていないことを思うと「もったいない」と感じて。それと先ほども言いましたが、地位や役職が関係なくなるというのは「宗教施設」だからこそじゃないかと思います。寺の入り口でいったん合掌して中に入れば、普段の生活からいったん離れ、仏さまの前で「自分自身」に戻ることができる。そんな場所が街のあちこちにあるのはすごいことだと思います。なので、質問の答えとしては「お寺も教えも両方」ということになります。

松本
そんなに素晴らしいお寺なのに、いまいち可能性が開いてこないのはなぜだと思いますか? 私も答えがあるわけではないのですが。

古川
一つの理由には、昔の地域社会が崩れてきているというのは大きいと思います。各地域のお寺では、これまで近隣の人々が「そういうもの」として、(言葉は悪いですが)半ば強制的に仏教行事に参加してきたと思います。たとえ本人の意思でなくとも、仏法にであうチャンスがあるのはよかったのかもしれません。でも、今ではその強制力もなくなり、コロナを経てさらに減ってきているようです。

ー先祖供養の意味を「再発明」する

古川
今日、松本さんにお聞きしたかったのが、葬式や法事、墓参りなど、先祖に関わる行事を今後どのような形で続けるのかという点です。私自身、実家が遠いので墓参りなど普段行かないし、自分の世代になってちゃんと法事などを行うイメージもあまりできていません。
ただ、たいていの人は浄土真宗の教えを聴くことはなくても、法事や墓参りは自然に受け入れています。それが「文化」となって続いていくのであれば、お寺の「二階」(仏法、信仰)が維持されていくのではないかと思います。普段は仏教の教えに関心がなくても、いざ何かが起こって心もとなくなったとき、「一階」(先祖供養)があれば「お寺に行って話を聞きたいな」という気持ちも生まれるかもしれません。でも先祖供養の文化自体がなくなってしまったら、そういうことも起こらなくなるんじゃないでしょうか。(※浄土真宗では「供養」という言葉は使いませんが、一般仏教としての話をしています)

松本
うん、私もけっこうそう思っていて。これまで浄土真宗の教団では、一階でお寺が成り立っているのにほとんどその意味づけをせず、下手すると「それはあまり重要じゃない」くらいの扱いになっていました。「葬式や法事は仏法を聴く機会である」という意味付けしかできていないのが、もったいないなと思います。葬式や法事の仏教的な営みとしての重要性をほとんど意識せず、教義を大事にするお坊さんほど一階部分の意味を軽視してしまう場合があります。もちろんみんな、肌では大事なことと感じているのでやるんですけど。
冷静に見てみたとき、法律で決まっているわけでもないのに葬式や法事が続いてきているということは、やはりそれなりにみんなから大事に思われているからでしょう。これは自分自身への反省でもあるのですが、かつては私もどちらかというと二階こそが仏道、仏法の世界だと思っていて、でもこれってけっこうエリート主義だと思うんですよね。確かに浄土真宗の親鸞聖人や曹洞宗の道元禅師は二階の人たちです。でも例えば、道元禅師の後を瑩山禅師が引き継いで、道元式のままだったらここまで続かなかった宗派に、民間信仰とか加持祈祷とかを取り入れたために広まっていったということがあります。だから、みんながなんとなくやって成立しているものには意味があるはずだし、そこをもっと積極的に価値づけられないかなと思って『グッド・アンセスター』を翻訳しました。また、そこに書いてあることをどう日本仏教的に読み解くかを検討し、「未来世代とつないでいく」ということを考えています。

先祖に関わる儀式を、「まあそういうものだからやりますか」っていうのは通用しなくなった。だから、その意味を「再発明」しなければいけないくらいになっているんだけど、そこを積極的に考えているお坊さんは少ないと思いますし、簡単ではないと思います。だけど、何もしないと確実に一階部分はなくなってしまう。だから、葬式や法事の意味づけを考えるのは大切なことだと思います。

古川
なるほど、意味づけ…本当に「再発明」ですよね。

(後編へ続きます)


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