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読書日記 | 7/22〜7/28

7/22(月)
8時半に起床。少し寝坊した。6:00ぴったりにアラームが鳴ったけれど、寝ぼけ眼でアラームを止めて、もう一度眠った。二度寝をしてバチが当たったみたいに、会社のチームメンバーに怒られる夢を見た。怒られるというか、飽きられるような眼差しで見られた(なんでそうなったか、は不明だけど、グサリと背中を刺されたような気持ちになった)。

支度をして、最寄り駅まで歩き、電車に乗る。移動中は「爆弾」を読んだ。残り1/4くらいで、もうすぐ読み終わりそうである。

会社に10時ちょうどくらいに到着して、仕事を始める。提案資料を作成して、レビューしてもらって、作成して、レビューしてもらって、チームメンバーのフィードバック面談をして、またチームメンバーのフィードバック面談をして、提案資料を作成して、案件メンバーと1on1をして、1日を終えた。ほとんど人と話していた1日だった。

定時少し過ぎには会社を出た。帰りの電車の中でも「爆弾」を読んだ。最寄り駅の日高屋でも「爆弾」を読んで、自宅でお風呂に入っている時も「爆弾」を読み、布団に入ってからも「爆弾」を読んだ。0時半くらいに瞼が重くなって、眠りについた。

1日振り返ってみると、仕事に集中していたのか、「爆弾」を読むことに夢中になっていたのか、よくわからない。とにかく「爆弾」はもうすぐ読み終わりそうだ。7回。


7/23(火)
6:00に起きた。7:00に起きた。9:00に起きて、10:00に起きた。つまり昨日よりも二度寝を繰り返した(もはや二度寝という言葉自体が不適切なほどに何度も眠った)。今から会社に向かっては、会議に間に合わないので、自宅で49インチのテレビをモニターにして、会議に出ることにした。うむ、大きすぎる。画面共有して、あれこれ話すけど、画面が大きすぎて、マウススピードが極端に遅い。

会議を2つほど終えて、支度をして、自宅を出た。金木犀のヘアオイルを髪に馴染ませて、少々の香料がある日焼け止めを塗り、香水をつける。改めて文字にすると眩暈がしそうな匂いが漂ってきそうに思う。自分としてはいい匂いの気でいるけれど、周りからは「あいつくさい、」と思われていてもおかしくない。うん、おかしくない。電車に乗ることはとても好きで、居眠りするのも、本を読むのも、外を眺めるのも好きだ。でも唯一許せないというか、不快感を覚えるタイミングがあるとすれば、匂いである。強烈な酸性の汗の匂いとか、振りまきすぎた香水とか、好きな匂いも多いけど、苦手な匂いも多かった。でももしかしたら、僕が僕とすれ違ったら不快感を覚えるかもしれない、と思った。気をつけねば。香りは控えめなはずだけど、所詮主観でしかない。「自分がされて嫌なことは人にやっちゃいけません」という小学生の頃に耳がタコになるほど言われることを愚直に実践する必要がある。

仕事に行く前に歯医者に寄る。歯医者に着くと2分もしないうちに名前を呼ばれて、担当医師がいる部屋へ行く。自分の担当の歯科医師は、女性でいつも必要最低限しか喋らず、表情もどこか無表情が多いような気がした。でもなんだかそれが妙に心地よく、いつも淡々と麻酔をされて、治療し、30分もしないうちに終える。まさにプロフェッショナルだな、と思う。口の中にたくさんの器具を突っ込まれて治療されると初めは怖かった。でも今は2ヶ月くらい経っているから、それほど怖くない。なんていうか、医師の方はすごいな、と思う。自分の手や選択を信じて、治療していく。その果てに失敗は許されない。強烈な責任感だと思う。そのくせ少し時間がかかると「対応が遅い!」とヤジが飛んでくることもある。優秀な医師は選択も適切でスピードもきっと早いのだろうと思う。強烈なプレッシャーだ。だから今こうして安心して口を開けて、委ねられるということはものすごいことなのだと思う。

会社に向かう電車の中で「爆弾」を読み終えた。会社で座席についてから「解説」を読んで、完全に読了。面白いという感想は不適切な気がするけど、面白かった。そしていい意味で、気持ち悪く、もう読みたくないと思う。それはなぜなら怖いから。登場人物が怖いというよりも、暗がりの気持ちに共感してしまう自分が怖いから。続編が7/31に出るらしい。読めるだろうか、でもきっと読むと思う。

20時を過ぎるまで仕事をした。作成していた提案資料が完成した。あとはお客さんに説明するだけである。とりあえず一安心。仕事を終えた後も、ヘッドホンで耳を塞ぎ、少しばかり会社で読書日記を書いた。定時後だと人が少ないから集中しやすい。

帰りの電車で「動物城2333」を読み始めた。友人のおすすめで購入して読み始めたけど、友人はもう読み始めているだろうか。
北千住で少し本屋に寄った。購入したい本があった。検索機で入力すると、検索結果が出力される。どうやらこの本屋には目的の本はないらしい。少しぷらぷらした。1冊気になる本を見つけた。「休むヒント。」という共著の本である。最近読んだ「なんかいやな感じ」の著者の武田砂鉄さんや、哲学者の永井玲衣さんなど、好きな著者が数名いたので、購入することにした。本屋はこういう出会いがあるから嬉しい。最寄り駅までの帰りの電車で「休むヒント。」を読んだ。

 このエッセイは「休むヒント。」と題した特集に掲載されるらしいのだが、休むのが上手な人ならば、こういった単発の原稿依頼を「すみません、ちょっと前から決まっていた仕事が立て込んでいて……」などと言いながら軽やかに断るはずである。しかし、あちこちから細かい発注を受けてテキパキ原稿を書き続けている生業としては、自動返信のように「喜んで!」とメールを返す。休むヒントについて考える原稿を書くことで、休みから遠ざかる。でも、それでいいと思っている。

休むヒント。』(P116、群像編集部・武田砂鉄著、講談社)

多分読んでいるとき、電車の中でニヤニヤしていたと思う。気をつけなければ。ストーカーや変質者と間違われてもおかしくない。ニヤニヤを隠すにはマスクである。マスク常備を怠ると危険だ。文字通り危険。
自宅に到着して、まもなくお風呂を追い焚きする。待っている間も「休むヒント。」を読んだ。

湯船には「ややこしい本を読む技術」を持っていった。3ページくらい読んだあたりで、そういえば!!と思い立った。ネットで購入した「デザインの生態学―新しいデザインの教科書」という本が到着するのが今日であった。帰りにポストを確認しなかったので、すっかり忘れていた。でも湯船に浸かっている…。こういうとき、忘れてしまうのがいやで、すぐに体が動いてしまう。バスタオルで体を拭いて、服をきて、ポストに向かった。無事に届いていた。本を開けると綺麗に梱包されていて、本の状態もとても綺麗だった。600円で購入したとは思えない状態。さすがバリューブックス!と思った。声が出るくらい綺麗な状態でびっくりした。購入時「傷少々あり」とあったが、微塵も感じさせなかった。古い本はバリューブックスを使おう。広めよう。みんなに使ってほしいと思った。
湯船に戻り、「ややこしい本を読む技術」を少しばかり読んだ。いくらかゆっくりお風呂で時間を過ごし、髪を乾かし、水をたくさん飲み、歯を磨いて、眠る準備が整った。まだ眠くない。読書日記を書くことにした。
15分ほど、ひたすら書いて、満足した気持ちになり、布団に入り、まもなく眠った。


7/24(水)
6:00に起きた。気を抜いた。今日も二度寝をした。なんとか9:00のアラームで体を起こし、支度を始める。もうなんていうか、朝起きることができない。特段自分を責めるような気持ちにはならないけど、なんとか起きたい。というか起きてはいるのだ、布団から出たい。明日は起きる、布団から出る。

会社に向かう電車の中で「ずっと真夜中でいいのに。」のLiveをひたすら観ていた。音量を大きくして響く楽器の音が心地いい。なんだか本を読む気分でもなかった。

仕事を始めた。今日も提案資料作成である。どうにか無事にクライアントから受注いただいて、早く要件定義から進められればいいのだけど。丁寧に進めていきたい。夕方には半期決算報告会があった。かなり数値がいいようで。賞与の金額も今までで1番多かった。おそらく貯金になりそう。引っ越しもしたいけど、これから先のこともふわふわしているからなかなか動きづらい。大きなダイニングテーブルが欲しい。シングルからダブルにヘッドを大きくしたい。願望はいくらかあるけれど、今の部屋は狭すぎる。
帰りの電車で「休むヒント。」を読んだ。

 概念としてはわかる。本当に大事な話だ。セルフケアや休息は、あらゆる意味で重要だと思う。もっと流行ればいいし、もっと議論されるべきだ。だが、わたしは「セルフケア」ということが、どういうことなのか実は、ぜんぜんわかってはいない。だからやはり「なんで、私がこの企画に。」と思う。  
 休まない。生活ができない。暮らしができない。自分の人生に集中することができない。だからこの原稿は、休むヒントを提示することができない。ただわたしが、わからないと書くだけだ。歴史ある群像に、こんなことを書いてもいいのだろうか。 
 わたしの家には、長い間カーテンがなかった。あとWi-Fiもしばらくなかった。今は炊飯器とテレピがない。まわりにはテレビを見ているふりをしていたが、本当はない。何か思想があるからないのではなく、ないのでない。最近はスマホの充電器もない。部屋はあまり散らかっていない。物がないからだ。本だけある。大量にある。 
 ひとりの夜は、風呂も入らず、ご飯も食べず、顔も洗わず、コンタクトも外さないで、そのまま長る。目が覚めると自分が、硬い本と、洗濯物にまみれていることに気がつく。

休むヒント。』(P140、群像編集部・永井玲衣著、講談社)

駅の乗り換え電車を待っている間、なんだか頭がぼんやりしていた。ぼんやりしながら、ぼんやりした文章を書いた。時折書きたくなる衝動はどこか嬉しい気持ちもありつつ、日常生活から乖離していく感覚がある。どこか浮世離れしていくようなそういう感覚。会社で近々飲み会があるらしかった。Slackのやりとりを見ていたらそんなやりとりが流れてきた。以前そういう話を聞いた時は「行きたい!」と言っていたし、思った記憶がある。でも今はどうだろう。行きたいと思えない。むしろ行ってしまったらそのまま会社を退職してしまうような気さえしている。今回は遠慮しよう、そう思った。

自宅に到着してから、お風呂を沸かし、湯船に浸かる。流れるような毎日を心地いいな、幸せだな、と感じる時もあれば、退屈だな、つまらないな、くだらない毎日だな、そんなふうに反芻する時もある。今日はどっちかといえば後者のようだった。寝る支度をしてから、読書日記を書いた。水をたくさん飲んで、布団に入る。


7/25(木)
朝起きて、会社へ行けなくなった。大それた理由は特になく、ただなんとなく、行けないような気がして、そのまま会社を休むことにした。こういうことは今の仕事を始めてからいくらかあった。前職の仕事をしている時はどこからかくる責任感が僕をそうさせなかったのだけど、今の仕事になってから責任というものが心底どうでも良くなった。(きっとこういうことは社会では許容されないのだろうと思う)
何をするわけでもなく、ただ茫然と過ごし、気づくと夕方になり、夜になっていた。一日中眠ったり、ドラマを観たりしていた。一度休んでしまうともう復帰できないのではないか、と思うほどに、心底どうでも良くなり、重たい気持ちになった。


7/26(金)
体の力が抜けてく感覚があった。昨日から本を読めていない、文章を書けていない。今日も引き続き、本を読むことも、文章を書くこともできないような気がする。
夕方、バスに乗って、近所から少し離れている焼肉屋に行った。1時間かからないくらいで夕食を済ませた。会計をしている時に急に目眩がした。理由はわからず、多分食べ過ぎか、夏バテだったのだと思う。始めて感じるようなどうしようもなさ、コンビニに駆け込み、吐きそうな気持ち悪さを我慢する。蒸し暑い外の空気から解放されて多少マシになった。
帰りのバスに乗り、自宅へ帰った。
浴槽を掃除して、湯船にお湯を溜めて、お風呂へ入った。綺麗なお湯に浸かる行為は心底気持ちよくて、すっきりとした気分になった。湯船を出てから、眠る支度をして、布団に入り、眠くなるまで、ひたすら「月がきれい」を観た。日を跨ぐタイミングくらいに浅い眠りに落ちた。



7/27(土)
7:00のアラームで目を覚まし、癖になっているが如く、二度寝をした。9:00にアラームで目を覚ました。ここのところ、起きてからすぐに体が起こせない。これに関しては体調不良などではなく、ただの怠慢だと思う。明日はなんとか起きたい。

シャワーを浴びて、身だしなみを整える。30分ほどで準備を終え、近所のコンビニにコーヒーを買いに行く。朝だからか、まだそれほど日差しが強くない。塩にぎりとカフェラテを買って、自宅に戻る。少しばかり整理整頓をして、10:00を待つ。今日は10時から友人と話す会がオンラインである。いつものように楽しみである。今日で第3回目になる。本の話やら、最近コロナになったという話やら、各自いくらか近況報告をした。回数もそれほど多くこなしていないこともあり、ノリがまだ見えてこない、でも変化を楽しみながら、どうにか継続して、楽しめたら僕は嬉しい。他の方も同じように思ってくれていたらそれはとても嬉しく思う。

12時からは、気になっている企業の一次面接を受けた。とても有意義な時間だった。次回は別領域のマネジメント層の方とお話しできるらしく、それもまた楽しみである。1時間ほど、じっくりと話をさせてもらった。その後はゆっくりとした時間を過ごした。15時を過ぎるまでは自宅で作業をして、掃除をして、そんな時間を過ごした。昼間の暑い時間を自宅でエアコンをつけて過ごすのも悪くない。ただ難点があるとすれば、自宅に飲み物と食料が無さすぎる。空腹を感じ始めたあたりでようやく重い腰をあげて、自宅を出た。

皇居外苑にあるスターバックスに向かう。錦糸町にある銭湯、黄金湯でサウナを堪能しようかどうか迷ったけど、よくよく考えてみれば、今日は隅田川の花火大会だった。厳密な開催場所はわからないけど、混んでそうだと思い、向かうのを取りやめた。
移動中の電車の中で「休むヒント。」を読んだ。

自分のことを大切にすることに、そこまで夢中にならなくてもいいんじゃないか、と最近思う。もはや開き直りだ。でも別に、自分のことをすり減らした方がいいとか、犠牲にするまで頑張ったほうがいいとか、そういうことではない。そもそもケアは大変だ。自分のケアに疲れるということだってある。
 徐々に思い出してくる。わたしは、自分の人生に真正面から集中するのが苦手だから、ひとの話をきいているのだった。じっと耳を傾けているとき、相手の言葉がわたしに入り込み、自分が相手の言葉そのものになるような感覚になることがある。そのとき、わたしの中のせわしないすべてが、停止する。静かな水中に潜ったかのような、何もかもがゆっくりになるような、そんな世界になる。別の世界に、連れ去られる。
 おどろく。このひとは、人間なのだ。息をしていて、笑ったり、食べたりして、生きているのだ。わたしはこのひとを傷つけることもできる。その途方もない自由が自分にあることに、またおどろく。そして、その自由を感じるわたしもまた、生きているのだとようやく思い出す。わたしはこのひとに傷つけられることができる。

休むヒント。』(P142、群像編集部・永井玲衣著、講談社)

1時間かからないくらいで、スタバに到着した。こんな場所に店舗を作れるスタバはすごいなあ、なんてぼんやりと考えていた。店内は混み合っていて、ギリギリ座れるくらいだった。天井が高く、休憩にはちょうど良い。作業をいくらか進めた。読書日記を書いて、noteを書いて、2時間ちょっとくらい作業した。途中ワイヤレスイヤホンの充電が切れてしまって、充電している間、何も聞かずにぼんやりと作業を進めた。耳を塞いでいると気づかないけど、周囲の会話が自然と耳に飛び込んでくる。意識していないのに、聞き耳を立ててしまう。隣の隣くらいの席の男性と女性が、なんらかの恋愛的なやり取りをしているようで、聞いている僕まで恥ずかしくなった。そもそも僕が聞かなければいい話なのだけど、どうも外出先で人の話を聞いてしまう癖がある。

20時前くらいに出た。購入した本があったので、大手町のMARUZENに向かった。一度行ったことがあり、大きくて、陳列もうまく言葉にできないけど、なんだか好きだった。本屋まで15分ほど歩いた。丸の内あたりを歩いていると何やらお祭りのようなものを行っているみたいだった。音楽が流れて、多くの人が音楽に合わせて、フェスのように踊り、はしゃいでいた。こういう日常から逸脱するような祝祭性は都会でも、地方でもその行為自体に意味があるように思う。昔は祭りではしゃいでいる人を見ると、どこか冷笑的に嘲笑的に、見てしまっていたけど、今はどちらかというか、共感とかそういう感情に近いように思う。秩序立ちすぎた世界の中で、弾けるようなはしゃぐ行為は大切に保管されなければならない。

MARUZENはやはりデカかった。デカいとそれだけで何か魅了するものがある。僕はイルカよりもクジラに魅了されるし、丘よりも山の方が好きだし、湖よりも海の方が魅了される。購入したい本は決まっていて、永井玲衣さんの「世界の適切な保存」だった。今週の水曜だか木曜だかに出たばかり。その1冊だけを購入する予定だったのだけど、本屋を回るとどうしてもほしくなってしまう。結局6、7冊ほど購入した。
帰りの電車で永井玲衣さんの「世界の適切な保存」を読み始めた。

 世界がおそろしい。世界中で起こっているどうしようもない苦しみがあることがおそろしい。街を歩くひとびとそれぞれに、人生があるということがおそろしい。それをすべて知ることができないということがおそろしい。「ある」ということがおそろしい。無目的に、無意味に、わたしがいまここで、座っているということがおそろしい。

  わたしには世界を包むひと言が見つからないが「怖い」と言へり(目黒哲郎)

 すべてがわたしを超えている。わたしすらも、わたしを超えている。暴力的なまでの不可解さ。なぜかよくわからないが、生まれて今息をしている。困ったなあ、とぼんやり思う。ずっとうっすら「こわい」と思っている。
 だが、そんな世界から目を離すことができない。世界がわたしにしがみついているのか、わたしが世界にしがみついているのか、もはやわからない。わからないまま哲学科に入って、ひとびとと哲学をする場をひらいて、文章を書いて、世界に目をまわして、結局いまもわからないままだ。

世界の適切な保存』(P7〜9、永井玲衣著、講談社)

自宅に着いてからも読み耽り、布団の中でも読み続けた。永井さんの言葉は素敵で好きだった。言葉にしたくない。素敵も、好きも、そんな単純な言葉じゃ置き換えられない感情が渦巻いて渦巻いて、そしてほんの少し人に歩み寄りたくなって、優しくなれて、そういう文章を紡ぐ永井さんを愛おしく思う。


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