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見逃せないカルトの兆候(いじめとカルト精神との共通点)

最近、カルト宗教問題が日本の巷をにぎわせています。


多額のお布施で家族がめちゃくちゃになってしまった人が関係者の暗殺を企てた、という悲しい事件が起きてしまいました。


巷の人がカルトというと、何か遠い世界の出来事だと思う方が大半だと思いますが、本当にそうなのでしょうか?巷の人々は




もともとおかしな組織が最初からあって、そこにおかしな人が集う。それがカルトだ。



と思いがちだと思います。そかし、その考えでは「カルト精神の本質」を見誤ってしまうように思います。実際のところ




極めて真面目な人々が「日々の生き苦しさから解放されるために」と真面目に精神活動していたのに、いつの間にかおかしな方向に突き進んでしまう


というパターンが大半だと思います。そう考えると、その「おかしな方向」へ突き進んでしまう分岐点を見極めることこそが大事になると思っております。さて、その分岐点は一体どこにあるのでしょうか?結論から申しますと





「ヨガ・瞑想といった精神活動によって対人関係の悩みが小さくなる」

よくあるヨガの説法



といったことを堂々と主張し始めたとき、「カルト」への分岐点に差し掛かっているとみて間違いないと私は思っています。

私のヨガ仲間が、ある日、巷の或るヨガ教室で「イジメ」にあってしまいました。運営者にそのことを相談すると「確かにそれはひどいイジメですね」と認めたにも関わらず、そのいじめっ子を出入り禁止にすることはなく、



「イジメられても、そのイジメっ子を許すことがヨガには大切です。それはあなた自身の試練です!」

キナ臭いヨガの説法


と、説教が始まってしまったそうです。何となくキナ臭さを感じませんか?


というのも




「ヨガによって対人関係の悩みが小さくなる」

よくあるヨガの説法



という説法が




「ヨガ瞑想修行によって悟り・慈悲に至ると、対人関係の苦しみから解放されます。しかし、
あなた自身ヨガ瞑想修行が出来ていないから、対人関係の苦しみが大きくなるのです。」

説法の裏に潜む真意



といった他責に使われてしまっているからです(いじめっ子を擁護し、いじめられっ子を無慈悲に叩き潰す考え方だ、という意味です)。こういった他責の考えに支配されてしまうとどうなるのでしょうか。そのヨガ教室の中には




「ヨガ修行に興味を持とうともしない世俗の人々は愚かだ」

修行する真面目な人が陥ってしまいがちなものの考え方


と、堂々と主張する人がいたそうです。どうやら「修行する真面目な我々」と「世俗」とにグループ分けをおこない、世俗を小バカにするようになるようです。これが「カルト」への分岐点だと私は思っています。



以上です。ご参考になれば幸いです。

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