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「お金への欲望」という言語表現そのものに対する違和感

ヨガ・仏教界の人々は、時々


お金への欲望

について説法されます。そして、それは大体以下のような内容になります。

=====お金への欲望=====


「この現実社会は欲望・エゴまみれで、金儲けに毒されてしまっている。そのせいで、一人ひとりの人間は金儲けの歯車の一つへと成り下がってしまっている。そして、歯車の代わりはいくらでもいるので、心身が壊れるまで容赦なく働かせるのがこの欲望まみれの世の中である」


「よって、社会全体として心に余裕なくなり、そして他者への寛容性がなくなり、結果として傷ついた心が更に傷つけあってしまう。だからこそ、ヨガ・座禅によって心の余裕を育み、他者への寛容性を広げていくことが大切になってくる」

=====ここまで=====



「金儲けに毒されている」という表現から、



「この世からお金がなくなることで、人々はお互いに信じ合い、平和・調和・平安な世の中へと導かれるのです」

よくあるお金の説法


とでも言いたげです。



「お金がこの世にはびこっているからこそ、他者が信じられなくなり、『金儲けに走る強欲な人・エゴ』を創出してしまい、その人たちのせいで、この世の中が殺伐としてしまっているのです」

よくあるお金の説法


とでも言いたげです。


彼らの言いたいことが分からなくもないですが、ただ、ものの考え方を




「抽象化」しすぎている



点に大きな違和感を感じます。私の経験上、抽象化し過ぎる人は



自分自身を都合よく棚上げ


している場合が大半です。以下は、ヨガ界に出回っている噂話・実例となります。バズって無関係な私の耳に入った事例となります。

或るヨガ教室に人気インストラクターがいました。その方の回のヨガ教室はいつも満員だったそうです。ある日、その方が或る病気にかかってしまったのですが、集客力があるためか、運営者は


「ヨガの仕事をそのまま続けて下さい」


と言ってずっと仕事をさせていたそうです。そうした中、その人気インストラクターがとうとう入院するレベルにまで病状が悪化してしまいました。さすがにインストラクターを続けるのがきつくなったそうで、その入院を機に


「辞めます」


と運営者に伝えたそうです。

そのような状況においても、その運営者は



「やめないでください!」


と執拗に引き留めたそうです。真偽のほどはともかく、寛容性のない言動・行動の典型例ですね。有名な話なので、ヨガ界でご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。


この事例を客観視しましょう。ものの考え方が抽象概念に支配されてしまっています。目の前の自分自身の現実と抽象概念としての「説法」との分別がつかなくなってしまっています。


「ヨガ教室維持運営のために、とにかくお金をかき集めなければならない!」


という必死さが伝わります。そういった寛容性のない言動・行動で人の怒りを買うことがあっても不思議ではないですが、そのような場合でも



「ヨガ修行が足りないから、怒りに支配されてしまっているのです」


と、怒った人に罪を擦り付け、自己弁護するようになります。結果的に



自分自身が金儲けに取りつかれていることに気づかず、「自身が説法から棚上げ」になっていることにすら気づいていません。



抽象概念の魔力です。



以上です。ご参考になれば幸いです。

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