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メディチ家衰退の原因

 かつて、イタリア・フィレンツェを拠点に銀行業で莫大な富を築き、フィレンツェの実質的な支配者にまでなったメディチ家。
今回は、その隆盛を極めたメディチ家がなぜ衰退してしまったのかを調べました。

 今までにいくつかメディチ家の記事を書きました。
この一族好きなのです。


・メディチ銀行の衰退


 メディチ家は、ヨーロッパ有数の銀行業を営み繁栄を極めました。
メディチ銀行は創始者のジョヴァンニ・子のコジモと繁栄を続け最盛期を迎えました。
しかし、ロレンツォの頃からおかしくなりはじめ、子のピエロの代で破綻しました。
イタリア戦争などの長期化する紛争や、各国間の政治的な対立により、各国王への貸付金が焦げ付き不良債権化してしまったのです。
貸付金は回収できなくなってしまい、メディチ銀行は破綻という結末になりました・・・。
これにより、メディチ家は経済的な影響力を低下させました。

・イタリア戦争でメディチ家追放


 ロレンツォの死後、フィレンツェではメディチ家の反体制派が勢いを増してきました。
そこへ、フランス王シャルル8世がフィレンツェを攻撃します。イタリア戦争です。
ロレンツォの子のピエロは、フランス軍によるナポリ王国への侵攻を黙認し、抗戦もせずに入城を許すという失態をしてしまいました。
これによって、市民の怒りを買ったメディチ家はフィレンツェを追放されてしまいます。

 その後は、サヴォナローラというわけのわからないやつの神権政治が始まります。
まあ、結局サヴォナローラも最期は処刑されてしまうのですが。
メディチ家はこの後、フィレンツェの支配者に復権→二度目のフィレンツェ追放→トスカーナ大公国の君主として復権と、二度の追放をされますが、不死鳥のごとく蘇ってきます。
しかし、このイタリア戦争の経緯が、メディチ家の権勢にキズをつけたことは間違いないでしょう。

・ルネサンスの終焉


 1517年からのマルティン・ルターの宗教改革運動を発端として、イタリアは宗教対立の争いの時代に入ることになり、ルネサンスの終わりが始まります。
さらに、1527年に神聖ローマ皇帝カール5世がローマ略奪を行い、ローマが壊滅状態となってしまいました。
ローマに集まっていた文化人や芸術家は殺されたり、他の都市に逃げたりしました。酷いことを・・・。
ローマ略奪をきっかけとして、イタリア・ルネサンスは終焉しました。

 メディチ家は、ルネサンス文化を積極的に支援し、ボッティチェリやミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチという巨匠を育てました。
フィレンツェを芸術と学問の中心地へと発展させ、ルネサンスの中心地としたのです。
しかし、ルネサンスが終焉を迎えると、メディチ家の文化的な役割も低下し、その影響力が弱まりました。
ローマ略奪を機に、フィレンツェでも共和派が決起し、再びメディチ家が追放されることになります。

・メディチ家の末路


 メディチ家の本家血筋は18世紀まで続きますが、後継者がおらずアンナ・マリア・ルイーザを最後に1737年に断絶。
トスカーナ大公国の君主の座は、神聖ローマ皇帝フランツ1世という人が継承しました。

 そのとき、メディチ家の本家がフィレンツェを治める以前に分かれたメディチ・ディ・オッタイアーノ家という家系が、トスカーナ大公位を求めて運動しましたが叶わなかったそうです。
この家系は現在も血脈を保っており、子孫に「コンスタンツァ・メディチ」という人をはじめ、6人のメディチ家の人が確認されているそうです。
メディチ家はちゃんと現在も生き続けています。

・まとめ


・銀行業の破綻によってメディチ家は経済的な影響力を低下させました。

・イタリア戦争でのメディチ家の失態によって家名にキズをつけました。

・ルネサンスの終焉によって芸術家たちのパトロンだったメディチ家は影響力を低下させました。

・メディチ家の本家血筋は断絶したが、別の分家の家系の子孫が現在もいます。

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諸葛鳳雛@真・歴史探偵
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