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【鑑賞日記】第8回横浜トリエンナーレを観に行った(3周目)
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」 @横浜美術館ほか
横浜トリエンナーレ、3周目。
会期も終了が近づいてきたせいか、人の入りも多かったです。そのせいかフェスティバル感もあって、鑑賞者の人数で雰囲気って変わるもんだな。という印象の変化が面白かったです。
作品解説もひととおりわかっているので、今回はあまりなにも考えずに回遊することにしました。
展示室階へのエスカレーターを昇ったところに展示されている、ラファエラ・クリスピーノのタペストリー様の作品。
これまでは、押し花ならぬ押し草だなあ。ネイチャクラフトっぽくていいなあ。と思っていたのですが、まず目に入ってくる作品でもあるし、あらためて見つめていると、描かれたものが”いきもの”に見えてきました。
いきもの、というか、森の人、精霊、あるいは祖霊的な存在でしょうか。
彼らは言葉にしない言葉で「お前たちがこれから観るもので何を感じ、何を思うのか。そして考えよ」と問うてきている。
作品のタイトルは「わたしたち」。自分が感じた印象はあながち的外れではなかったのかもしれません。
そのようなことに思いがいくと、今回の展示作品には同じように、人在らざる存在がいるのでは? という妄想がはかどります。
たとえば場内グランドギャラリーで存在感を発揮しているサンドラ・ムジンガの巨獣の抜殻のような作品もまさに神獣で、同様の問いかけをしているのではないかという感覚を強く感じるのでした。
本展の作品群は、人の営みや軋轢などを顕している。そして、わたしたちは何をなしてきたのか。どう思いどう考えるのか。
人ってどうしようもなく未熟。その未熟さが活力になっているということもあるけれど、いまだ幼年期を脱してはいないのだ、と思うのでした。
作品の意図を正しく知るだけではなく自分はどう感じたのか、という見かたは現代アートの持つちからのひとつでしょう。
展示会そのもののナラティブを鑑賞者の各自それぞれが思い描き、一人ひとりの物語を紡ぐということも、鑑賞のありかただろうと思ったのでした。
それにしても展示作品の印象が会場の後半に行くにつれて、冒頭の精霊的なものから雑多な混沌へと変化していくのが、なんともいえず。
都市型芸術祭のヨコトリは、国内芸術祭の老舗として評価されていると思います。
しかし、開催当初のそれと比して、規模感が毎回縮小傾向にあるのが気がかりです。
他の現代アートの美術館の単独企画との差異があまり感じられない。近郊に現代美術館が多いがゆえの悩みなのかもしれませんが。
同じく都市型の愛知芸術祭は複数都市の会場展開を行なっており、それと比べるとやはり弱い。今後、仮に淘汰の時代がやってくるとしたら。それにどう向き合っていくのか。
トリエンナーレという国際芸術祭としての存在意義をどのように定義し提起するのかが必要だと思います。今後100年、そしてそれ以上も開催していくためにも。
ところで、横浜美術館前の前庭的な空間。なんかがっつり剪定されてるじゃあないか。結局、単なる芝生だったんかい!
それとも蚊などの害虫防止をせよとかの横やりが入ったのかしら。気になるなあ。
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