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嵯峨野の月#131 落日

第6章 嵯峨野15

落日

その貴人は

当時日ノ本一の権門である藤原北家の男子に生まれ、公卿である父の庇護のもと十代の頃より大学に学び優れた文章を作り、淳和帝に重用されて順調に経歴を重ねて齢三十八で従四位下参議に叙任された。

さらに三年後、外交使節の長である遣唐大使の任を賜り、

「父に続いてこの名誉職を務めさせていただくこと有難き倖せ」

と口上を述べ、今上の帝である仁明帝に向かって恭しく笏を掲げた。

唐皇帝に謁見する。ということは外国とつくにの何処の王の前に出しても恥ずかしくない男。と朝廷が認めて下さったのだ!

と生来の強い自尊心と帰国後の出世への野心で満たされていた心が、

今では恥と屈辱にまみれている…

開成三年(日ノ本では承和五年、西暦838年)、七月。

ぎらぎらした夏の正午の日差しが照りつける港の沖合で、

大穴を開けられ、貝がびっしり貼りついて腐りかけた船底を晒した遣唐使船がほぼ垂直に沈んでいき夥しいあぶくを遺して舳先が海中に没したのを見届けた第十九次遣唐大使、藤原常嗣は、

「は、はは、は…ざまをみろ…」

と肩で息を付いて沈んだ船に向けて呟いた。

それを聞いてしまった遣唐副使代行(小野篁渡航拒否のため急遽着任)長岑高名ながみねのたかなは思わず顔を背け、聞かなかった振りをした。

無理もない。使節に与えられた船はもう二十年以上前の遣唐使船の使い回し。

何度も嵐に遭い、凍え死なぬよう海水に濡れた衣を脱ぎ捨て、必死で船体にしがみついてここまで辿り着いたのだ。

成程、密教を持ち帰った空海阿闍梨、天台教学を収めた最澄和尚、新書体である隷書を持ち帰った橘逸勢どの。と確かに「前の」遣唐使たちは期待以上の成果を上げたであろう。

しかし、どうして朝廷は「次」の遣唐使節の為に船を新造しなかったのだろうか?

蝦夷討伐最初の大敗、長岡京棄都から続く経済難を引きずって来た朝廷には内政に回す費用しか無かった。という事情は理解していても外交政策がこうも杜撰では使節をぼろ船に乗せて「死ね」と言っているようなものではないか。

身分が下の者の命を平気で使い捨てにする年を取りすぎた形骸である故国を航行不能にまで損壊した一の船の姿に重ね、沈めてしまわないと気が済まぬほどの故国への怒りと絶望が常嗣の中に渦巻いて居た。

遣唐使事業。

それは留学生にとっては最新の学問と技術を日の本に持ち帰る為の希望の旅路だろう。

だが外交使節にとっては大陸の冊封を逃れ続けるための形だけの臣下の礼を取りに行くだけの、損失の多い倦怠の旅路でしかないのだ。

冊封を受けてしまったら文字も習慣も思想も全て大陸風に改められおそらく天皇家は廃され、日の本は日の本で無くなる。

その意地ひとつのために、

使節に選ばれた貴族、高僧、学者、医師たちを平気で海の底に沈めてまでも大使である自分が生き残り、やはり形だけの臣下の礼を取りに行く。

つくづく業深い我が身だ…とため息をつく常嗣に

「これ以上海風に当たると体に悪いですぜ、大使どの」

とくだけた口調で声を掛けた小柄で筋肉質の中年男の名は張宝高。

彼は山東半島を中心に新羅から大陸沿岸部、日ノ本の内海にまで貿易を行う新羅商船団の頭目である。 

実は、浜に打ち上げられた一の船と乗員たちを発見したのは彼の配下たちであり、常嗣が肌見放さず持っていた国書で日の本の外交使節だと知ると張は自分が経営する宿に一行を招き入れ、

「長安への道のりはここから徒歩で六十日かかる。ここでじゅうぶん休んでから行くといい」

上を下へも置かぬ厚遇でもてなしてくれた。

常嗣は彼の厚意を有り難く受け入れ、その礼に、と
「帰りの船としてあなた方の新羅船をわせていただく」と金子の詰まった銭袋を差し出した。

本来なら白村江はくすきのえの戦い以来敵対関係にある新羅の商人と取引をするなど、公人としては厳罰に処される振る舞い。

しかし、ここ数日間近隣の港に出入りする船を視察していた常嗣は、今の航海の主流は小型で操舵能力の高い新羅船であり、先程沈めた故国の遣唐使船なんて百年以上前の旧式の型なのだと思い知らされた。

造船技術と航海技術が停滞しているこの現実をいつまで経っても認識の変わらないお上に見せつけてやる!という自分のまなこで周辺海域の現状を見た彼の認識の変化からくる行動だった。

張は中の銭を数えて算盤そろばんを弾くと貰った銭の八割を常嗣に返す。

「それでは安すぎます!」

「勘違いしないでいただきたい、これは前金だ」

と銭を押し戻そうとする常嗣の手をにっこり笑って張は制した。

「残りはあなた方が無事揚州に戻って来た時払っていただく。が…ここ十年の長安はいろいろと不穏だ。外交に関係のない留学生たちはここに残すべきだ」

「し、しかしそれでは学生たちの学ぶことが」

「当代の名人たちを都から派遣させ、ここで学ばせればよい。但しそれはあなたの手腕。師匠たちの招聘には俺も力を貸そう」

それだけの力が自分にはあるのだ。という事をこの海の大商人はさらっとした口調で言ってのけた。

成程、そういう手段もあったか!

張の考えの柔軟さにこれからの人間は時代の流れに合わせて現実を見つつ、認識を改め続けなければこの生き馬の目を抜く大陸では生き残れない。と常嗣は痛感したのだった。

張の宿で体を休めた遣唐使たちは十月五日、大使常嗣以下四十二人を引き連れて揚州から出発した。

「本来ならば敵国の使節である我々を何から何まで世話してくれて実に有難い。学生たちのことを頼む…」

と出立の直前、新羅商人たちに心からの礼を述べた常嗣に張は

「おいおい、敵国だなんて百年も昔の話だぜ!?この広い唐土の上では俺たち同じ異国人じゃないか!」

と笑って見送ってくれた。こうして一行は六十日の行程を経て長安入りをする。


昔、己が野心の実現の為にひとりの貴人が遣唐大使を名乗り出た。

彼はひと月もの航海と僻地福州での海賊扱い、「この字下手の悪筆悪文では国賓として遇すことが出来ない」と上申書を十数回も突き返された屈辱を受けても挫けず長安入りし、第十二代皇帝徳宗に謁見を果たした。

が…常嗣の父で今は亡き先代の遣唐大使、藤原葛野麻呂ふじわのかどのまろの胸中に去来したものは、

「王家である李家は既に自己保身しか頭に無い宦官たちに浸食され、滅びつつあるという現状、天子の玉座におわしますのは高貴なる傀儡でそこには何もない、と思い知ったさ」

と生前、葛野麻呂は愛息の常嗣だけにそう述懐した。

翌年の開成四年一月(839年2月27日)。

第十九代遣唐大使藤原常嗣、唐王朝十七代文宗皇帝もんそうこうていに謁見。

礼装に身を固め、「倭国の大使藤原常嗣罷り越しました」と拝跪する常嗣。

この時齢三十一才の文宗は自分を支持する宦官、王守澄の顔色をうかがいながらきょろきょろと目を泳がせ形式に沿った口上を述べる。

「こ、困難な旅路をはるばる来てくれたね。た、大儀であった…」

大儀であった。

その言葉を受けて唐国と日ノ本の形ばかりの臣下の礼は終わり、第十九次遣唐使団のやるべき事は果たした。と常嗣は内心肩の荷を下ろした。

「歓迎の宴を開くゆえ存分に宮中を愉しまれるがよい」

と眉目秀麗な大使を前に相好を崩した文宗はこの時だけは自分の意志で歓迎の意を現した。

それから
どんな美酒を飲んでも
贅を尽くした料理を口に運んでも
甘い唐楽を聞かされても心から愉しめず、謁見からひと月経ったある夜、
寝所にあてがわれた見目麗しい妓女の顎を持ち上げて激しく唇を吸い、相手のしなやかなからだに己のいら立ちを思いっきりぶつけた。

「ちょ、ちょちょっと待って大使どの…は、激しすぎる!」

絹の寝具の上で女は喜悦の叫び声を上げて二十回以上達しながら失神し、そのまま眠りに落ちる。こうやって妓女の内も外も存分に味わいつくしても常嗣は、

このおんなも可愛いがやはり、肌は故国の女の方がよい。早く国に帰って妻の夏緒(藤原緒嗣の娘)の柔肌に包まれたい…といっそう望郷の念が増し、

よし

宮中での接待にももう倦んだ。皇帝陛下にお願いしてこの城から出してもらおう。

と久しぶりにすっきりした頭で朝を迎えた。


「そうですか、もうお発ちになるのですか…」
と使節一行の王城辞去願いの書に目を通した皇帝づきの宦官王守澄は実に名残惜しそうに常嗣を見た。

実は王守澄、八割の高雅さと二割の威厳を香のように纏った常嗣を気に入っていたのだ。


「お帰りになる前のお願いなのですが、東都(洛陽)からの客人に会ってくださりませ。わざわざ倭国大使を尋ねてこられたのです」

いつもは尊大な守澄が丁寧な口調と態度でそう言い終わるとその客人は、ふわり、と文官着の袖と裾を広げて滑るように執務室に入って来た。

小柄な痩躯に胸まで届く白く長い顎髭を垂らし、冠の下のその眼差しは深く澄んでいる。官吏というより仙人のような印象を与えるその老人はじっ…と常嗣の顔を見てから通訳を介して、

「もしかしてあなた様は前の遣唐大使どのの血縁か?」

と訊ねてきたので「如何にも、前の大使は我が父ですが」と答えるとその老人は感極まって涙を滲ませ、

「我の名は白居易はくきょい。あなた様のお父上を接待させて頂いた者です。本当に、よく似てらっしゃる…」

白居易、字は楽天、六十七才。官職、太子賓客分司東都(洛陽駐在官で文官の名誉職)

玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を歌った代表作「長恨歌」をはじめこの時代既に周辺諸国に名を知られた大詩人と、葛野麻呂と常嗣二代にわたる遣唐大使との実に二十五年ぶりの邂逅であった。


王城の中庭の開きかけた藤棚の下に茶道具と湯の沸いた鍋、菓子と旬のものの料理が用意されている。「藤」家からの客である自分にこのような場を設けて下さった文宗皇帝の心づくしに常嗣はいたく感謝した。


「帝城 春 暮れんと欲し、喧喧けんけんとして 車馬 渡る。共にふ 牡丹の時と、相随ひて花を買ひに去る…」(「買花」白居易)と詩を諳んじ茶を淹れてくれる居易の言葉の通りなるほど、ふと目を上げて辺りを見回すと成程、

季節は春の盛り。紅く堂々と立つ牡丹をはじめ海棠、君子蘭、花蘇芳が満開と咲き誇り、まるで歴代の漢詩人が言葉で織りなした自然そのままの色彩と芳香の中にいま自分がいることに、

いま、私は本当に唐土にいるのだ…!という実感がやっとこみあげて来たのだった。

「空海阿闍梨がもうこの世に居ないのは寂しいことです」

客が茶を啜るのを見計らって口を開いたのは居易からだった。

「私はあの時若い官吏で詩人としても駆け出しで留学中の空海どのの情緒的な詩に刺激を受け、橘秀才(橘逸勢)の
楽の響きに心慰められ、伴雄堅魚どのと碁を打ったものです。今思えばあの二年間は私の人生の中で珠玉のひと時でした…」

「阿闍梨のことは残念ですが橘秀才は書と楽で活躍し、雄堅魚どのは帝の碁の師として出世なさっています。あなた様の『白氏文集』は我が主君の愛読書であり今や宮中で大流行ですよ、酔吟先生!」

号(ペンネーム)で呼ばれるのはちと照れますなあ…とはにかんだ居易は客が慎重に言葉を選んでいることに気付き、

「安心なさい、任地にとんぼ返りする隠居爺いと一時後には城から出る外国の使節の会話に耳をそばだてる宦官なんていませんよ」

確かに。我らは内政で彼らを脅かすほどの存在ではないか。と思うと肩の力が抜けた常嗣は次々と出される旬のものの料理を楽しむことにした。

やがて香ばしいにおいと共に湯気を立てて目の前に出されたのは…今の時期しか味わえない採れたての何か山菜の唐揚げ。

それがたかうな(竹の子)の揚げ物だと説明された途端に目の前に乗船拒否した副使、小野篁の顔が浮かび、浸水する船体ごと自分の目線が降下する。

篁よ。
あの時私はどうすれば良かったのだ?

「のほほほほほ、これが一番の大好物でしてな~あ」と喜色満面の居易と湯気を上げる料理を前に客人は、

「私は人間として、恥ずべきことをしてしまいました…」と目からぽろぽろ涙を溢しながら二度の航海に失敗し、

ある者は大破した船体と共に海底に沈み、
またある者は漂着した先の島民に殺され、
ある者はいかだで海面を漂いながら餓死し、

百人以上の犠牲者を出したこと。そして、三度目の出航で乗り込んだ直後に船が浸水し、膝まで海水に浸かり這う這うの体で脱出した直後に目の前にいた副使、小野篁に

「…見ていただろう?一の船と二の船を取り換えて出港する」

と友だった男にあろうことか今からぼろ船に乗って死ね。と言うのと同じ命を下して真っ向から乗船拒否されたこと。

これが最後と逸る気持ちで嵐に遭い難航した末揚州に漂着したこと。

等を喉までせり上げていた後悔の石を一つずつ吐き出し語り終えると料理の皿の前でしゃくりあげる。

こうして命がけ辿り着いた唐土は内政は腐り荒れた都は主だった学芸の名人と僧たちに逃げられ、
犠牲を払う価値のない国になり果ててしまっていた。客人の絶望は如何ほどであろう。

あのね、と居易は常嗣の肩に手を置き、

「あなたは国を守るためにここまで来て謁見を果たし、小野の副使は人々の命ために罰を覚悟で主君に逆らった。あなたたちは守りたいものの為にそうしたんだ。自分のためでなくそうしたあなたたちはどちらも悪くないんだよ、きっと…」

とまるで祖父が孫をなだめるかのように常嗣の頬に手を置いて泉のような眼で相手を見つめた。

不思議だ。
この老詩人の言葉が胸にすっと入って魂さえも慰撫してくれるようだ。

空海阿闍梨の訃報を伝えることが出来た。

揚州に居る学生の為に学芸の名人数名を派遣させることが出来た。

伴須賀雄とものすがお(前の留学生、伴雄堅魚の息子)を棋待生として宮中で学ばせることが出来た。

そして私を訪ねて来られた詩の大家、白居易さまと会談し、こうして慰められている…。

無駄じゃなかったんだ。

「故国に帰ったらねえ、もう外圧を恐れて遣唐使を派遣する必要は無い。日ノ本は日ノ本の道を行きなさい、と…

そしてもうひとつ、
この爺、息絶えるまで頭の中にある詩を書き続けまするぞ。退屈はさせませんから、次の白氏文集をお楽しみに。とあなたの主君にお伝えください」

と会談の最後に悪戯を思いついた童のように居易は片目をぱちり、とつぶって見せた。

その時泣きながら食べた筍の唐揚げは、塩だけの味付けとは思えない程美味だった。

「ありがとうございます、白居易どの」

懇ろに礼を述べた常嗣は部下である使節一行を連れて長安を出立し、二月かけて揚州に到着。

そこで天台僧、円仁が弟子の惟暁と共に逐電したとの報せを受け「霊仙三蔵法師を訪ねてまいります」の置き手紙から、彼が霊山五台山に向けて旅立ったことを知った。

この時代の唐は道教以外の宗教弾圧が広がり、外国僧の入国は厳しく制限されていた。円仁の師、最澄が学んだ天台山への入山も断られそのまま帰国するよう命じられた円仁は
「天台宗に足りないものを持ち帰るまでは帰らない」と不法滞在の密入国者になる覚悟を決めていたのだ。

まあいいさ、どんな難事でも「何故かうまくいく」が口癖の円仁の事だから何年かけてでも帰ってくる事だろう。


「僕は琵琶を弾くことしか能が無いから琵琶を習います」

と目的がはっきりしていた京家の貴族、藤原貞敏ふじわらのさだとしはたった短期間で師の琵琶博士、廉承武れんしょうぶ(劉次郎とも呼ばれる)の教えを体得し感激した師から名器の玄象げんじょう青山せいざん獅子丸ししまるの三調を授けられ、さらに師の娘まで娶っていた。

「この玄象はかつて空海阿闍梨が西明寺で弾いていたという謂れがあるそうで。何か強いえにしを感じます…娘に伝えた筝(柱のある琴)を途絶えさせたくないと師が望みますので妻を連れて行くことにします」

と帰りも危険な船旅だというのに俊成は新婚の妻、劉娘りゅうじょうとお気楽に微笑み合った。

出港直前に外海を行くか内海を行くかで副使代行の長岑高名と揉めたが「何を今更面子を気にしているのですか!?」と言い負かされてすぐに折れ、内海を行くことに決めた。

船代の残りを受け取った張は「円仁和尚のことはこっちの新羅人たちで面倒見るから心配するな」と宣言すると港の商船団員たちの先頭に立って「旅の安全を!」と日ノ本の言葉で見送ってくれた。


開成四年八月(承和六年、西暦839年9月)、帰りの遣唐使船九隻、揚州から出港。

なるほど新造の新羅船は頑丈で小回りが利いて穏やかな海面をするすると進んでゆく。

「父から習ったことの無い妙手があると思ってここまで来たのに、覚えた手は両手の指ほど。暇なので詰碁ばかりしてましたよ…やはり父は凄かった、と再認識した留学生活でした」

ことし二十六才の碁士、伴須賀雄のぼやきを海風に当たりながら聞いていた常嗣は
ある海域に差し掛かった時、二回目の航海の生き残りである水夫から「この辺りで遣唐使船が沈没したのです…」という悲痛の呻きを聞いて碇を下ろさせ、ここで同乗していた神職に慰霊の儀式を行うよう命じた。

かけまくも かしこみかしこみ もうさく…

と船上で祝詞が響き、乗員全員が首を垂れる中、ひとり藤原貞敏が何かに取り憑かれたように荷物から琵琶の獅子丸を持ち出し、うぉぉぉ、と獣のような咆哮を上げて船室から駆け出して神職の横から海中に向かって放り投げた。

大陸の国宝がきれいな弧を描いて宙を飛び、青い波間に吸い込まれていく。

「獅子の名を持つ名器なら龍神を鎮め、海中にいる仲間の御霊も鎮まるかと…」

衝動的にそうした。そうしなければ自分の中の荒れ狂いそうな気持ちを鎮められなかった。
と肩で息をつく貞敏を誰も咎めなかった。

儀式が終わると次に同乗の僧侶の読経が始まり皆、恐ろしいくらい朱い夕陽が沈む中で合掌しながら泣いた。

海の中の同胞よ、我は遣唐大使藤原常嗣。大陸での務めを果たし故国への帰路で祈りを捧げる。

神の清め、仏の慰め、名器獅子丸の響きで…

安らかに眠り給へ



五十五年後

次の遣唐大使に任命された菅原道真が「唐国内の衰え甚だしく、危険を冒して航海する必要無し」と宇多天皇に上奏しこれが聞き入れられたところで渡航中止。

実質遣唐使が廃止され、その四十年後に─

大唐帝国は滅びた。

後記

エピソード「最後の遣唐使」第二話。新羅の大商人張宝高、大詩人白居易(白楽天とも)と当時のビッグネーム登場。

悲惨を極めた後悔に深く傷ついた大使、常嗣の物語。




















































































































































































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