嵯峨野の月#25 佐伯家の人びと・善通
第一章 菜摘
二十五話 佐伯家の人びと・善通
空海が佐伯の実家に帰って十日が過ぎた。
人間、なにもしないでいるのは娑婆ではかえって苦痛なのだなあ。
夜が明ける前、自室に用意された寝具の中でうつらうつらしながら空海は思った。
一昨日、僧衣を返してもらおうと母に尋ねてみたが
「思ったより繕うのが大変だからもう少しお待ちなさい」
と微笑みながら断られてはそれ以上何も言えず、
邸で働く使用人たちに「大変そうだな、手伝おうか?」と声を掛けても
「いえ、真魚どのお手を煩わせたら却って旦那様に叱られてしまいますから!」
と丁重に拒否され仕方なく自室に戻って手持ちの経を智泉と読んでいると、なにやら外が騒がしい。
「何や?」と窓から外を覗くと、年の頃6才から10才までの男児たち7、8人が空海に気づいてひた、とお喋りを止めた。
「別に怒らないからおいで」と優しく声を掛けると一番年長の子が進み出て、
「ねえ、父ちゃんから聞いたけど真魚さんは都のお役人になるはずだったってほんと?」と遠慮なく聞いてきた。
「お役人になるための大学には入ってたよ」
一年足らずで辞めてもうたけど。と子供相手に余計な事は言わない空海である。
「じゃあここらへんのどの大人よりも頭いいってことだよね」
「それはどうかは知らんけど…あんたら一体何しに来たんや?」
その言葉を合図に子供たちはわっ!と一斉に窓の下に取り付き
「おいら達に読み書き教えて下さい!」と眼をきらきらさせながら口々に叫んだ。
しょうがあらへんなあ…と頭を掻く空海の口元には微笑みが浮かんでいる。
人間、やることが見つかると途端に気力が湧くもんやな。
「案内してやるからちゃんと表から入るんやで」
「なんだなんだ?我が家はいつから子らの学び舎になったのだ!?」
と七日ぶりに帰宅した佐伯善通は、近所じゅうの子供たちが入れ替わり立ち替わり邸の表口から入って来ては、真魚に万葉仮名の読み書きを習いに来る光景に相当面食らった顔をしたのであろう、
「いい加減お口を閉じてくださいな」と妻の玉依に指摘されてやっと、ぽかんと開いていた口を閉ざした。
「いいじゃありませんか、子らがいると家に活気があって」
「お前はそう言うがなあ…学びたい子なら誰彼構わず家に入れるというのはどうかと思うぞ」
「真魚が子らに礼儀から何から教えていますので今のところ何も起こってませんわよ」
と杯に酒を注いでくれる手を止めて玉依は誇らしげに笑った。
確かに悪戯者で煙たがられていた子までもこの家に入る前に一礼し「手習いに来ました!」と行儀よく振舞っているのを見て、
真魚は子を躾けたり人にものを教えるのが上手いな、と感心したものである。
だから余計に…なぜあのまま大学寮に居て学者にならなかったのだ?
真魚、おまえを大学寮に入れるために父と義弟の大足がどれだけいけすかない役人たちに頭を下げて苦労したのか、分かっているのか!?
こんな苦しい世の中で、仏教が何の役に立つというのだ…
という落胆と無念が、善通の胸の内にまだくすぶっているのだ。
「お金を無心されて怒っていらっしゃるのは分かりますけど、あれからずっと真魚と口をきかないのは良くないと思いますわ」
と玉依が心配そうにうつむくと、長い睫毛が細かく生え揃っている所は驚く程真魚によく似ている。
「唐へ行くから金を下さい!」
と真魚に床に額を擦り付けて土下座をされたのは宴の後の深夜で、善通も心地よく酔って寝る直前のこと。
勝手に大学寮辞めて、急に坊さんになると言って私度僧になって、今度は唐に行くから金をくれ、だと!?
なんて身勝手がすぎるんだ!酔いなんか一瞬で醒めてしまった。怒りに任せて息子を殴らなかっただけでも上出来だった。と自分でも思う。
「気分が悪しゅうなったから寝る」
とくるりと背中を向けて寝てしまってから、善通は一切息子と口をきいていない。
「起きろ!船出をするぞ」
実家に帰って二十一日目の夜明け前。
空海は自室に入って来た父に無理矢理起こされ、外出着に着替えさせられ、そのまま表に出ようとすると、
「烏帽子ぐらい着けろ、馬鹿者!」ときつく注意された。
この時代、成人男子が頭に何も被らないのは露頭といい、今の世だと下半身裸で晒されるよりも恥とされた。
従って露頭を許されるのは、世捨て人の僧侶のみ。正式な出家もせぬまま8年間も露頭のままでいた空海は、自分がかなり「浮いた」存在だったという事を父の叱責で今更ながら気づかされた。
丸木舟の帆が朝陽を受けて、藍色の海面を滑るように進んで行く。
船の上には父善通と空海の他に、水夫が二人、船の左右でえーいほっ、とかけ声を出しながら櫓を操っている。
佐伯善通が息子三人を都に出し、そのうち四男の空海を大学寮に行かせる事が出来たのは、郡司という今でいう市長と同等かそれ以上の地位の他に、四国、瀬戸内海の小島の特産品を集めて周り、畿内で売って金に換えて戻って来る海運の商いが成功し、経済的にかなり恵まれた方の豪族だったからである。
空海も幼い頃から父の船に乗り、15で旅立つまで仕事を手伝わされた事があるので今朝の航海は積荷が少なく、今日中には帰れるであろうな。
とだいたいの行程の予測は出来た。
粟島という名の小島で船を泊め、水夫たちを残して善通は積荷を息子に背負わせ集落のとある小屋まで迷いなく歩いて行った。
「わしだ」と入口に掛けてある筵をめくって中にいる人影に呼びかけると、やがて健康的に日焼けした引き締まった体つきをした年の頃17、8の娘が
「だんな様ぁ!」と善通に抱き付くや否や…口吸いを始めたのだ。
額と腋窩からどっと汗が滴り落ちるのを自覚しながら空海は、
男と女の密事なんて葛城山の修験者の里で当然のように聞いたり見たりしてきたし、
修行当初は頭領タツミ夫妻の夜毎の吠え声で夜眠れなかったが、十日もすると慣れてしまった。
女人との経験が無い空海にとって男女の交わりとは、こうしてこうしてこうするから子が出来るんやな。
という一通りの知識はあったが…
自分の親のそれは、やっぱり見るのも考えるのも嫌や!と顔だけは平静を装って全身から来る拒否反応に耐えた。
「今はせがれが見てるから、な」と善通は娘の唇から逃れて『これが波也女だ』と空海に自分の女を紹介した。
「だんな様には似てないけどいい男だねえ」とハヤメは鼻先が触れ合うほど空海の顔を見てうふふ、と笑った。
「父上」
うん、何だな。と善通はひとつ空咳をし、「これの腹の中にお前の兄弟がいる。まあそういうことだ」
はあ、と空海は気の無い返事をしてから父に促されるまま小屋の中に入り、背負っていた積荷の袋を地面に降ろすと、
「ほれ」と善通が袋を広げてハヤメに中身を見せた。中には藻塩と米と、干し鮑と野菜が詰められている。
「余った分は集落のみんなに分けてやれ」と言うとハヤメは嬉しそうに米を手ですくった。
父がいつ頃から彼女と深い仲になったかは知らないが、おそらく父は定期的にハヤメに食糧を届けているのだろう。
「『あれ』を出してくれないか?」と父がハヤメに頼むと、心得た、とばかりにハヤメは地面に敷いた藁の敷物を剥がして、鋤で穴を掘り始める。
「これは大事なからだだから真魚が掘るのだ」と言われて真魚はハヤメから鋤を受け取り、穴の外側から慎重に掘り進めた。
やがて出てきたのは厳重に麻布に包まれた一抱えもある木箱だった。持ち上げるとかなり重さがある。
「これは島じゃ重いだけで何の使いみちも無いからね。持ってってくれて助かるよ」
とさばさばとした口調で話すハヤメに見送られて佐伯親子は船まで戻り、あと2つ小島を巡って取引を終えてから讃岐への戻りの航海に出た時は昼遅くだった。
水色の空には魚の鱗の形をした雲が整然と並んでいる。
この雲を見たらあと二月か三月で冬が来る。
ずっと帆を操って黙っていた父が「真魚」と背中越しに手招きして息子を呼びつけた。
(明日の夜明け前に、あの箱を持って出て行け。もちろん智泉も連れてな)
と耳元で囁かれて空海はようやく箱の中身が何かに気づいた。
(もしや…これ、金ですか?)
水夫たちに聞こえないように小声で問うと善通は無言でうなずいた。
「なあ真魚。我々佐伯一族は、代々受け継いだ領土と海の商いで民を守り、家族を養ってきたしそれを誇りにしていた。
わしはこの内海の景色が好きだ。…だが、お前には小さすぎる海なんだろうな」
一向に振り返らない父は、まるで海を相手に語りかけるようなのんびりした口調で話を続ける。
「最初に唐に行きたい、と聞いた時は怒ったが、日にちが経つと段々とこう思えるようになってきた。
せがれの内一人ぐらい、この海を越えて外国に飛び出すやつが居てもいいんじゃないか?」
そう言って振り返った善通の顔は、西陽を受けて穏やかに微笑んでいた。
空海は泣く寸前の顔で父に頭を垂れた。
「堂々と立ってろ、ばかもの…」
善通は腕を組んで再び息子に背中を向けた。
後記
父の愛人ハヤメの登場で
「そういうこととはどういうことだ?親父!」と思ってはいるが金の無心に来たので口に出せない空海。
↑
下心あり。