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【いよなん12/1新刊サンプル】小鳥居詩乃『夜の果てできみを想う』
みなさま、はじめまして。
あるいは、おひさしぶりです。
いよなん、でございます!
風が冷たくなり始めたなぁと思ったら、急に寒くなりましたね。
秋の息吹を感じられぬままに、冬が一気に襲い掛かってきたような気がしています。
というわけで、12月1日の文フリが近づいてきました。
今回も『いよなん』第2号に掲載される作品のサンプルをあげていきます!
これまでにあげた分に関しては、↓ のマガジンにまとめてありますので、ぜひ目を通してみてくださいね。
今回、紹介するのは、note担当者である私、小鳥居詩乃の小説『夜の果てできみを想う』です。
自分で紹介ページを書くのって、少し恥ずかしいですが……
いよなんサンプル #8
作者:小鳥居詩乃
タイトル:夜の果てできみを想う
あらすじ
7年前、史香が小5のときに父はふらりと家を出て行った。
それ以来、家族は父の失踪と不在に心をすり減らし続ける日々を送っている。
そしてもうすぐ忌まわしき日――父が失踪した日を迎える。生死不明でも、父は「死」を宣告される運命だ。
史香は想う。――明けない夜は本当にないのだろうか。
本文サンプル
窓の外から、しゃがれた男性の声に「史香」と名前を呼ばれた気がして、窓を開けた。
「……お父さん?」
外に呼びかけるが、応えはない。
湿気を孕んだ風が私の腕をむわりと撫でる。最近の夏は、夜でも暑い。暑くてしょうがない。エアコンがつくりだした人工的で涼やかな空気が揺蕩う室内に、窓から昼の暑さの残滓がなだれ込んでくる。受験勉強の息抜きに、とスマホでプレイしていたパズルゲームのテーマソングが外に流れていって、あたりを飛んでいた虫を追い払う。向こうに逃げていく虫を追っていると、暗闇に目が慣れてきた。人影はない。スマホのライトで外を照らしてみたが、やっぱり誰もいなかった。何もなかった。多分、ネコとかタヌキとか、そういう野生動物の声だったんだろう。よくあることだ。
どうせなら、いれば、良かったのに。
ううん、いればよかったじゃなくて、いてほしかったのに。
熱くなった目の奥を無視するように、ため息をつく。
なんで、そんなことを考えているんだろう。期待なんか、していないはずなのに。
夜は嫌いだ。特に、今日の夜は最高に嫌いだ。今日という日の夜は、絶望の姿をして、私の前に姿を顕した。
本当なら――そう、窓の外で男の人のような声さえしなければ、今夜は一晩中、カーテンを開けるつもりすらなかった。
ビロードをおもわせる真黒な空には、ちらちらと光る星が点在している。私の家があるのは、都会でもなければ田舎でもない。でも、住んでいる人は少ない地域だ。うちがそうであるように、一軒家が多く、都会で立ち並んでいるようなマンションも数えるほどしかない。背の高いビル群はなく、街でギラつくネオンもない。だから星がよく見える。絶望とは縁遠いほど、美しい。幼き日から眺めていて、見慣れているはずの景色だが、毎夜見ても飽きないほどに美しい。
それでも、この夜は絶望の色をしている。
そうおもったのは、今日が八月二十四日だからだ。この夜が明けてしまえば、朝になる。八月二十五日になる。暦上では大したことない日のはずだが、私にとって、八月二十五日は鬼門のような日だ。
七年前の八月二十五日、お父さんが家を出て行った。私はそのとき、小学五年生だった。昼夜を問わず、蝉がやかましく鳴いている日だった。ミンミンミンジャワジャワジャワミンミンミンミン。まだ、耳の奥で鳴っている。まるで自身の中にある生命力とかいう名前の力を、使い切るかのような鳴き方だった。私がもっとリリカルで、センチメンタルで、世で言うところのヒロインのような性格であったら、その蝉の鳴き声を何か恐ろしいことが起きることへのサイレンだったと疑いもなく解釈し、感傷に浸れたのかもしれない。だが、生憎と、そういう風にはおもえなかった。ただ、うるさいな、とおもっただけだった。騒音から逃れるため、耳にイヤホンをはめ込んで、流行りの音楽を耳の奥へ奥へと流し込んだ。もう曲名はすっかりと忘れてしまったし、メロディーだってサビですらなんとなくしか歌えないが、明けない夜はないから前進せよという歌詞があったことだけは記憶している。ありふれた応援ソングだったのかもしれない。ネットで検索すればすぐに曲名も歌詞もわかるんだろうけど、調べるのも億劫だ。あのときは「良い曲だなぁ」と好んで聴いていたけど、今となっては毒のようにしか感じられない。
明けない夜はないとか、そういう耳心地の良い言葉は、ときによっては、人によっては、応援の言葉ではなく、攻撃の言葉になり得る。誰かにとっての祝いの言葉は、誰かにとっての呪いの言葉だ。
あの日のお父さんは、いつもと変わらなかった。いや、変わらないように見えた。会社からまっすぐ家に帰ってきて、夕飯をお母さんとお姉ちゃんと私のみんなで一緒に食べて、その後、ふらっと散歩に行くような身軽さで家を出て行った。
最後のお父さんの姿はあんまり憶えていない。お父さんが玄関ドアを開けたとき、私はお姉ちゃんとふたりリビングで、流行っていた恋愛ドラマを観ていた。ドラマには、アイドル系のビジュアルをした売り出し中の新人俳優が出演していた。だからだとおもう。あの夏の夜のお父さんを想い出そうとすると、その俳優の顔ばかりが浮かんできてしまう。
お母さんやお姉ちゃんと一緒に捜索願を出しに行った警察署で、「お父さんの表情とか様子とか、何かいつもと違うことってありませんでしたか?」と訊かれても、まるで答えられなかった。その新人俳優が初恋の相手と出逢う喜びの表情ばかりが記憶の浅いところにあって、でもお父さんの顔は記憶のすごく深いところにあって、上手く想い出せなかった。記憶は想い出そうとすればするほど、紗幕がかかったように曖昧になっていく。微睡むときに見る夢のように、現実のようでも、非現実のようでもあった。湖の底に沈んでしまったかのようだった。色も姿もかたちもぼんやりとしか見えず、音もくぐもってしまっていて聞こえない。あのときの記憶自体の輪郭が霞んでいってしまっていた。
あの夜、家の玄関ドア前にいた人物のことを頭におもい浮かべてみても、その人は舞台上の黒子のように、透明人間のように、黄ばんだ壁紙の中へと吸い込まれてしまった。お父さんは、だいたいいつも、薄く笑っていた。一重まぶたの目をじっくりと細めて、頬の筋肉を精一杯つかったように口の端を持ち上げて。だからそんないつもの表情をしたお父さんの姿を、玄関ドアの前に置いてみた。いつも通りだから、違和感はなかった。さらにBGMとして、ドラマで新人俳優が口にしていた「花梨さん、僕のこと、ほんとに憶えてないんですか?!」という絶叫に近い台詞を重ねる。やっぱり、違和感はなかった。だから、お父さんの様子について質問をしてきた警察官に向かって、私は「いつもと変わらなかったとおもいます」と言った。
本当に、そうだったのかなんて、わからないのに。
憶えてすらいないのに。
でもその妄想のような光景を、あの夜に見た記憶とすることにした。何度も何度も繰り返し想い出せば、それは本当にあの日の記憶となってくれる。頭の中で適当に作り上げられた妄想は、曖昧な輪郭を描いて、ぼんやりとした質感を得て、やがて記憶となった。お父さんは、あの日、いつもと同じような表情で、いつもと同じような様子で、家を出て行った。散歩に行って、すぐ帰ってくるような気配がした。そんなはずはないけど、そういうことにした。私の中にある記憶は、白昼に浮かぶ月のように、おぼろげで、虚ろで、頼りなくて、儚い。
でも、そのことを指摘する人は誰もいなかった。
捜索願には、「家出人の氏名:綾村直正」とやけに丸っこいお母さんの字で書かれた。そのほかにも年齢とか、身長とか、家出時に身に着けていた衣服とか、いろんなことが記入された。ただひとつ、埋まらない欄があった。家出の理由や、その動機とおもわれるものを記入する場所だった。そこにあったのは、ボールペンを紙に置いたときにできる、黒く丸い点がみっつ。文章どころか、単語にも、文字にも、図形にも、線にもなっていなかった。
「旦那さん、浮気でもしてたんじゃないんですか」
お父さんが帰ってこないと告げると、警察官は、まず、そう言った。
「そんなこと、ありません。あの人はそんなことをする人じゃないんです」
お母さんは反論しても、警察官は聞く耳を持たなかった。
「いやぁ、多いんですよ。浮気してたとか不倫してたとか。ほら、よく言うでしょう」
「……何が、ですか?」
「恋は、反対されればされるほど燃え上がるってやつですよ」
「……私は、聞いたことありませんけど」
「いやいや、聞いたことないなんて、あり得ないでしょ。使い古されたような考え方なんですから。漫画だって、映画だって、ドラマだって、そんなことばっかり書いてますよ」
「だから、私はそんなこと、夫の口から聞いたことないって言ってるんです!」
フロアじゅうに、お母さんの絶叫が響き渡る。
お母さんの言いたいことは、わかっていた。お父さんは純粋とか清純とか、そういう言葉にぴったりはまるわけではないけど、それに近い人だった。電車やバスではお年寄りや怪我をした人に席を譲っていたし、日曜日には地域のごみゼロ運動に参加していた。世の中で模範とされていることをなぞるように、生きていたのかもしれない。
視線が私たちに集まる。警察署には免許の更新に来た人や、遺失物を取りに来た人などがいた。その人たちはそれぞれの目的から少しだけ目をそらし、かわりに私たちの動向に注目する。寄せられる複数の視線を受け、気まずそうに身を縮ませる警察官の後ろから「私が対応しましょう」と別の警察官が出てくる。
「課長……」
「きみはもうちょっと、人の気持ちを考えてから対応しなさい。自分の家族がいなくなったら、怖いだろう。苦しいだろう。他人事で考えちゃいけないんだよ」
「……はい」
課長と呼ばれた警察官は、小声でそう指導してから、くるりと私たちの方を向く。彼はお母さんが記入していた捜索願にざっと目を通して、口を開く。その目は真っ直ぐに、お母さんを見ていた。
「旦那さんがいなくなった理由で、何かおもい当たることはありませんか?」
「わからないんです」
「なんでも良いんです。そんなことで、っておもうことで人は失踪したりするんです。だからなんでも良いんですよ。何かありませんか?」
「いや、ほんとに。ほんとに、何も心当たりがなくて……」
「例えば、会社での愚痴を言っていたとか、あるいは夫婦喧嘩をしていたとか、親子喧嘩をしていたとか、ありませんか? ご両親の介護があったとか」
「ないんです。そういうことも、一応、私なりに、考えてはみたんですが……。ここ最近は仕事も上手くいってるって言ってましたし、夫婦喧嘩も全然……。娘たちとも上手くやっていました。運動会とか合唱コンクールとか、学校行事にもよく顔を出してくれる夫で。義両親は今のところ、介護の必要はありません。毎週末、山登りだのハイキングだのに出かけるくらい元気ですし……」
「そうですか、でも、何か理由がないと、いなくなったりはしないとおもうんですよね。まあ、百歩譲って、一日とか二日とかの家出ならわかります。でも、もう五日も帰ってないんですよね?」
お母さんが俯く。それは頷いたようにも見えたし、警察官が提示した質問から目を背けたようにも見えた。
「それならやっぱり、旦那さんは何かしらの問題を抱えてたんじゃないんですか? よく、考えてもらえませんか?」
お母さんは「はい」と言いつつ、さらに下を向く。つられて、私も下を向いた。苔色のリノリウムの床には細かい傷がたくさんついていた。床がえぐれるように剝がれている部分もある。ハイヒールとか、傘とか、杖とか、少し鋭さを帯びたものでひっかかれたんだろう。おそらく、一つひとつの傷はたいしたことない。もしかしたら肉眼では見えない傷だってあるかもしれない。でも積もりに積もった小さな傷は、床をえぐるまでになった。
もしかしたら、お父さんがいなくなった理由もそういうことなのかもしれない。
小さな理由が積もりに積もって、大きな理由になってしまって、そして家から出て行った。
前にお父さんから、愚痴にも満たない話を聞いた。
仕事で新人がするようなミスをやっちゃった。上司にはため息を吐かれただけだっんだよね。怒られれば、いくらかマシだったのになぁ。呆れられちゃったかなぁ。あとさお母さんの機嫌を損ねちゃって、もう三日もおしゃべりできていないんだよね。どうしよう。このまま口きいてくれないとか、ないよね。あったらやだなぁ。それからこの間、お姉ちゃんに臭いから近寄らないでって言われちゃったんだ。お父さん、もうすぐ四十だからさ、そういう、加齢臭みたいなのがするのかもしれないよね。デオドラントスプレーを買ってみたんだけど、スプレー自体が臭いって言われたんだよなぁ。夜だけじゃなくて、朝にもシャワーを浴びてみたけど、そしたら今度はうるさいって言われちゃった。もう、どうしたら良いかわかんないな。難しいな。いろんなことが。
どれもこれも、家を出る理由にはならないような些細な日常の話だった。
一つひとつはきっと、たいしたことではない。でも、その一つひとつが鋭さを伴って、お父さんの心を引き裂いたのだとしたら、どうなんだろう。私が踏んでいる床のように、お父さんも小さな傷をたくさん負って、その痛みに耐えきれなくなっていなくなったのだとしたら。――それは、家を出て行ったことの理由にならないんだろうか。
そうおもったけど、目の前にいる警察官に告げることはできなかった。確証がなかったから。裏付けがなかったから。
世間は、何か事件が起こったとき、その理由を追い求める。例えば凶悪な殺人事件が起こったとき、その殺人犯が事件を起こした理由を探す。犯人の生い立ちや思想形成の軸となったもののどこかに、悪事に手を染めるきっかけを求める。――親からの虐待や多大なる期待、学校での不和、社会との不適合性。過去の独裁者やマッドサイエンティストの自伝、過激な表現が含まれる映画やアニメ、残虐性のあるゲーム。そういう非日常性に富んだ事物を挙げ、現実に起きた事件と無理矢理にでも結び付け、そして安心する。「ああ、これなら私には関係ない」と。「私はこうならないはず」と。意味があるのかないのかすらわからないその行為は、この陽の下のそこらじゅうに蔓延っている。大きな事件が起きたとき、その理由やきっかけに日常性のあるものは求められない。日常の中に溶け込むような事柄が理由になってしまえば、誰もが凶悪な殺人犯になりえると主張してしまうようなものだから。
お父さんの件だって、同じだ。
日常によく転がっている一つひとつに傷ついて、家族を置いていってしまったのかもしれない、と告げても、きっとこの警察官は納得しないだろう。さっき、この課長と呼ばれた警察官は部下に「他人事で考えちゃいけないんだよ」と言っていたけど、所詮、この人から見て私たち家族のことは他人事だ。この人はお母さんにはなれないし、私たちにもなれない。そして、お父さんにもなれない。だから、理解できない。納得しようもない。
それに納得してしまったら、いつの日か、自分も自分の家族に同じことをしてしまう危険性を露わにすることになる。
「ただ……」
お母さんが呟く。
吐息のようになった二文字を拾い上げたらしい警察官が、じっとお母さんの顔を見る。
「あの人が晩酌のときに食べる、柿ピーを切らしていたんです。うっかり、買い忘れていて」
「え?」
「私が買い忘れていて、あの人の晩酌用の柿ピーがなかったんです」
「えっと……柿ピー、ですか。お菓子の?」
「ええ。だからあのときは、それを買いに行ったのかとおもったんです。だってあの人、私に……千幸、行ってくるね。って、それだけしか言わなかったから……!」
泣き崩れるお母さんを支えたお姉ちゃんを横目に、私は「……そうですか」と事務的に対応する警察官の姿を目で追った。彼は空欄に何かを書き込んで、そのまま届け出を受理したようだった。
お父さんは、一般家出人というカテゴリに分類されたらしい。いなくなった人には一般家出人と特異行方不明者の二種類がいて、後者は事件性があるとされて警察が身を乗り出して捜索をしてくれる。でも、一般家出人は違う。ただ自分の意思で、家を出て行ったことになる。おそらくだけど、警察はほとんど捜査をしない。お父さんがいなくなったことに事件性はない。警察の力をもって、捜査する必要はない。そう判断された。
お父さんは、いなくなった。七年前だ。
不在者の生死が七年間不明であるとき、家庭裁判所は利害関係人の申立てによって、失踪の宣告をすることができる。民法で決まっていることだ。失踪から七年間が経過した日に、死亡したものとみなされる。
だから、お父さんはこの夜が明けたら、殉じる。生きているのか、死んでいるのかはわからないけど。それでも、殉じる。存在として、消えたことになる。
帰ってきてほしいと私が想っているお父さんは、この世の中に、生きていないことになる。
物語の展開と続きは『いよなん』第2号に掲載されます!
『いよなん』第2号は、
西3・4ホール
ぬ-21
で頒布いたします!
みなさんのご来場を、お待ちしております!