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正解を探し続ける人たちへ

人生に正解はない。
法に触れるような行動は不正解かもしれないが、これをやれば安泰というルートは全くない。
大金持ちになって、やりたいことをやれてもそれが「不正解」だと思えば不正解なのだし、その日食べるものに困るくらいの生活を送っていても、それが「正解」ならば正解になる。
正解は人によって異なるのだ。

でも、私はずっと正解を探していた。
学生時代は、勉強を通して本当の「正解」を求められる機会が数え切れないほどある。
正解を求めていたくせに、解が1つしかない数学は大嫌いで、幅広い解答が正解となる国語が大好きだった。
それは間違えることが何よりも怖かったからだ。

求められている解答が導き出せなかった時、私は自分が全否定されているような気持ちになった。
先生や周りの生徒からの冷たい目。背中が冷たくなる感覚。じわじわと迫り来る恐怖。
でも、それよりももっと怖いのは「正解がない問題」だった。

正解がないくせに、正解を求められる。
世間一般のありきたりな答えが正解となる問題で、私は間違えることが多かった。
世の中の普通に溶け込めるようにどれだけ努力しても、「正解のない問題」を出された瞬間に、今までの努力が水の泡になった。
私が真剣に考えて出した答えは、世の中の普通には到底及ばないものばかりだった。

マジョリティな思想、見積もった数字、暗黙の了解。大学の講義や志望先の面接で次々と繰り出される正解のない問題に苦戦した。
私が培ってきた知識は全て、他の人よりも抜きん出た「自由な発想」の範囲内に収めてもらえるような域ではなく、ただただ常識を知らない人のレッテルを貼られるものだった。

学生時代の正解に苦しめられ、社会人になっても正解のない正解に苦しめられた。
数十人のグループに属する時点で、暗黙の了解となる正解に答え続けなければならなくなる。
私にはそれができなかった。

苦しい状況の中、耐えるか、抜け出すかの選択で私は抜け出すことを選んだ。
これも、どちらが正解というものはない。
ただ無理やり正解を決めるのだとしたら、それは自分が自分でいられる方だと思う。

世の中に適合できないという苦しみは、きっとこれからも続くだろうし、ほとんどの人には理解されないだろう。
でも、私と同じように「正解」に苦しめられている人がいるのなら、私はその人たちに向けて発信し続けたい。

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栖山 依夜
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