足並みを揃えることが全てじゃないのだろうけれど
私の考えの根底には〈普通になりたい〉という思いが常にある。
普通じゃないことで、弾かれ、バカにされ、散々嫌な思いをしてきた。
学生。それは集団と過ごすことを強いられる期間。
ここでの生活は、これからの人生を大きく左右する。同年代の人間たちに振り回される数年間。
純粋な心ゆえ、同級生たちは大多数のものと同じであるか、そうではないかで、いとも簡単に正解と不正解をハッキリと分けてしまう。
みんなが好きなものを好きでいて、みんなが嫌いなものを嫌う。歳を重ねるごとに、そうあることが平和に過ごすための暗黙のルールだった。
私はもちろん、不正解側の人間。
どれだけ合わせようとしても、どこかでボロが出た。何かが違うと勘づかれれば、そっと距離を置かれる。
確実にいじめられるわけではない。
優先順位を後に回されたり、発言をなかったことにされたり、ただ、そっと見えないものとして扱われる。
何も、物を隠されたり、水をかけられたりすることだけがいじめではないのだ。
そんな、じめっとした嫌がらせを受け続ける。
でも、それは私が〈普通〉じゃなかったから。
普通に生まれてきた人間は、普通になる努力をしなくても普通でいられる。
ただ普段通り動いているだけで、クラスの一員として過ごしていられる。
普通に生まれていたら、どれだけ楽だったか。
そう思わなかった日はない。
今更それが全てじゃないよと言われても、もう遅い。
だってもう既に沢山傷ついてきたのだから。
出る杭は打たれる。
だから打たれないように、自分を抑えてきた。
出過ぎた杭は打たれない。
それもそうだ。でもそれは、世間に呆れられ、見捨てられているのと同義ではないのか?
この言葉に勇気をもらえる日もあれば、
打ちのめされる日もある。
好きな映画が猛烈に批判されていた時。
なんとも思わない投稿が貶されていた時。
つまらない本がベストセラーだった時。
ただの一個人の意見なのだから。
そう思えばそれまで。
自分と同じ人はいない。
それも知ってる。
でも私の意見が、少なくとも世間では〈間違い〉の方に分類されてしまうこと。
そこで私は常に、現実をまざまざと見せつけられている。
「また間違えた」と思い、同時に普通でない考えしかできない自分を恨む。
自分の意見も大切にしてあげたいのに、素直に受け入れてあげられない。
世の中は、間違っていると思う人をこれでもかと言うほどに激しく叩く。
まるで自分だけが正義だと言うように。
可哀想だな、と違う土俵に立って、
冷ややかな目で見る。
それができたなら、どんなに楽だろう。
*
ちょっとつまらない、腹立つな〜と思った本を読んで、ここまで話が広がってしまいました。
残念ながら、超がつくほどの高評価レビューばかりでした。なんやねん、クソ。
前に書いた、よく似た記事も貼っておきます。
本は、メルカリで売ります。