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半日半夜胃を転がす話
杉本秀太郎「半日半夜」(講談社文芸文庫)を読んでいる。
ひとつひとつのエッセイが珠玉で、これらの内容をまったく開示せずに、1ミリのネタバレもせず誰かにこの本を激推ししたいが、何をどう言えばよいのか。
以下、必然的に杉本風の語りになる。
本に限らず、映画、美術作品、音楽、料理、名勝等々、人の耳目を喜ばせるものは、誰かからの解説なしに素のまま、まずは味わって欲しいという欲がある。
私自身が何の前情報なしに、映画やら名勝やらを味わいたい人間で、そうでない場合、期待が過ぎてしまい感想のうち失望が大方を占めてしまうということがままある。
人の想像は安易かつ勝手なものだから、物質の都合を伴った何らかの作品より大枠で、ちゃんと勘所を押さえて私自身を喜ばせる。
期待で満足し、それはそれとしてあとは作品を味わえばいいが、まだ私の頭には執着が残り、自分の作り出した期待と目の前にある作品を比較検討する等、実に厄介なことをしてしまう。
例えば歌ものでない音楽といった言語的な表現でないものは、いくら語ったところでその本質を伝えられないから、そのものについて言葉を尽くして激推ししたとて、わりとフレッシュに感じられるものだと思うが、映画やら本やら言語的、文章的、会話的な表現を下敷きにしたものを激推しするのは同じ言語で語るため、よほど慎重に言葉を選ばなければならない気がする。
かといって、何も語らずこれはいいものだし、私は君に薦めたいのだから、読めと言って、読んでくれた試しはほとんどないし、何やら独善的な行為であってどうもやりにくい。
何も言わず、君へのプレゼントだから、という手法は時々通じた気がする。
しかし、ネット上で見ず知らずの人に住所を聞いて送り付けるわけにもいかないのだから、note上で何も言わず語らず、激推しするという芸当が出来るか否か。
今日は珍しく15時台に仕事が一区切りつき、打ち合わせの連続で、近頃やや苦手になったコーヒーで胃がたぷんたぷんだったので、ひとまず帰宅した。
帰宅してまだ敷きっぱなしの電気毛布の上に転がり、体と一緒に胃を右左に転がしながら、珠玉のエッセイを読み、あてもなくこの本をどうしたものかと勝手な使命感に浸り続けて、何も得るものがない。
そういう半日の過ごし方は、これら珠玉たちを書いたり書かなかったりし、薄暗い京都の町屋の中でゴロゴロしていたに違いない杉本の意に沿っていたかもしれないが、そもそもこの本に他人をどういう気にさせてやろうという意気込みがまるで抜け落ちているので、そのせいでもないが、私はいつの間にかただ胃を転がすだけで、日が落ちてしまった。
今日は一日雨だったが、思いつきで洗濯をして、それだけは何か私が有意義なことをした気になれる結果であって、洗濯物は天候がどうあれ、いずれ乾くものだから放っておいていい。
あとは風呂に入って瞑想をすれば、半夜のほうも無為に過ごして、眠りにつけるので、激推しのことはあまり気を揉まずに胃を転がしておけばいいかと思えるようになってきた。
派手な意味付けや自己表現を求めなければまずまず、人生はうまくいくような気になってきたから、本当に人生は簡単なものだ。
朝起きて、講談社文芸文庫の滑らかな表紙の手触りを思い出し、これは私の好きな木蝋の手触りに似ていると思い至っただけで、昨日の半日半夜が有意義だった気になる。