もはや、その思索自体が美しい
そろそろ、思索の美しさの話をしたい。
考えるとはなにか、とよく考える。
矛盾しているが。
ちらっとぶらっと書籍を探すと、こちらの「はじめて考えるときのように」は「考えること」をていねいに絵本のように説いてくれている。
こんな一節がある。
ぐぐっと短期集中して問いに答えることを繰り返して、問いを深めて整理していくようなことを「考える」といえるが、一方で☝のような問いをたずさえたまま生活することも「考える」といえるだろう。なにかの着想を得るときのひらめきもこのタイプだろう。問いを持ち歩いていたからこそ、ひらめく。
3年おきに開催されている大地の芸術祭。
大地の芸術祭 (echigo-tsumari.jp)
今年開催中のこの芸術祭で中学生が展示作品を壊してしまう事態が起きた。詳しい状況は不明。
悲しいニュースだが、そのときの壊されてしまった作品を片付けているときに作者のカワクボリョウタ氏は、あらたな着想を得て新しい作品を生み出した。
修学旅行生に展示作品を壊されるも… 作者は破損部分を使って新作発表「物が散乱する様子にはある種の美しさがある」(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース
これはまさに、「考えること」であって「美しさとはなにか」を常にたずさえ、探していたように思えた。
もはや、この思索自体が美しい。
そして、大地の芸術祭に行きたすぎる。
3年後に行こう。
なにとぞ。