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なんにもしないでゲームばかりしている!?−それが解決の糸口です−

 中学1年生のシゲルは学校に行かず、部屋に閉じこもり、1日中スマートフォンを触っている。
 シゲルの母は深いため息をつく。「なんにもしないでスマホでずーっとゲームとかやっているんです。もう我慢の限界で、スマホを取り上げようとしたら、今まで見たこともないように怒って、暴れて。どうしたらいいんでしょう。」
 シゲルは壁を殴って穴をあけ、スマホを絶対に渡さない、とスゴんだそうだ。彼の豹変に両親は驚き、途方に暮れて面接に訪れた。
 ひきこもりや不登校の相談に、スマホはよく登場する。親にしてみれば、子どもがやるべきことをやらず、小さい画面を見つめ続けている姿に危惧を覚える。スマホを与えなければよかった、ネットの接続を切った方がいいのか?とスマホが犯人のように思えてくるのだ。
 ネット依存やスマホ中毒は大きな社会問題として取り上げられ、スマホやSNS、YouTubeによって、現実のコミュニケーションが疎外されて、その世界に閉じこもってしまい、親としては気が気がではなくなる。こういった相談は増え続けていて、今やひきこもりの問題とスマホはセットで持ち込まれると言ってもよいほどだ。
 「なんにもしないで無駄に時間を過ごしているんです!」
 しかし、よく考えれば「なんにもしていない」のではなく、スマホで何かを彼らはしているのだ。そう決めつける前に子どもたちはスマホで実際になにをやっているのか耳を傾けてみよう。

 シゲルの話を聞いてみる。
 学校の授業もつまらない。勉強もいまいち苦手。クラスでは、スクールカーストの三軍で、誰にも相手にされない。かと言って家もきらいだ。母親は、高校や大学の話ばかり。勉強はそのためにやれと常々言われている。学校に行かないと母は一日不機嫌で、リビングにいけばどうせろくなことがない。父親はもうすっかりあきれたのか何も言わない。
 なんでもスマホのせいだって言われる。はじめは一日2時間まで、って言われ、最近はスマホ取り上げる、とか、料金を払わない。とかとにかく脅してくる。学校に行けないのは夜遅くまでスマホしているからって言われる。学校に行かなくなってからスマホをやるようになったのに。シゲルも母親に負けじと溜息をつく。
 では、スマホで実際に何をやっているのかをシゲルに問うと、眼を輝かせていくつかのゲームを見せてくれた。ゲームにはさまざまな攻略法があり、アイテムを貯め、自分がパワーアップしていくようだ。「みんなと助け合うプレイが盛り上がる。それぞれが援軍を送りあってもっと強くなるんだ!戦略をマスターして、メンバーに尊敬されるときが一番嬉しい!おれ、神っていわれたことあるよ。世界ランキングで表示されたこともあるんだ。あと、大人はお金を払ってアイテムを買うけど、中学生は課金できないから、地道に稼ぎ続けるしかないんだ。時間はかかるけど、ムカキンは尊敬されるんだ!」(お金を使わないでゲームをすることを“無課金”と言う)

 また、そのゲームにはチャットというなんでも書き込める掲示板があり、そこではおじさんやおばさん、高校生も大学生もまじえてゲームの情報交換をする。それだけでなく普通の会話もやりとりされている。シゲルはチャットでは本音を言っているそうだ。学校に行くのがだるいこと、親がスマホを取り上げること、時には英単語の覚え方まで尋ねたりすることもある。
 シゲルは言う。「きちんと礼儀をわきまえないと相手にしてもらえないんだ。お礼を言ったり、挨拶したり。ゲームの世界にもルールがきちんとあるから。それから年齢と関係なく、攻めがうまいと一人前に認めてくれる。ダメな時は落ち込んで、メンバーに励まされることもある。」
 たしかに、見せてもらうとメンバーが書き込めるチャットには、朝の挨拶からおやすみまでのやりとりがあり、勉強はちゃんとしているのか?学校に行っているのか?とメンバーから声をかけられている。シゲルが“兄貴”とよぶ特に親しいゲーム仲間もいるようだった。(兄貴はシゲルの父の世代に近いサラリーマンのおじさんのようだった。)ゲームをしている様子を動画で流すYouTubeの「実況」があり、実況者はカリスマのように思われている。いつか自分も“実況”をやりたいとシゲルは憧れているのだ。

 かったるい、面倒臭いという雰囲気を醸し出していたシゲルが、生き生きとゲームについて語り、わたしはシゲルの本質を垣間見たような気がした。驚いたのは、ゲームは、わたしの考えていたものから大きく進化していることだった。ゲームの中のアクションや戦いで攻撃性が発散されたり、仮のキャラクターになるというだけではなく、そこには社会があり、挨拶など日常の交流があり、愚痴の吐き場になり、憧れや落ち込みといった情緒の動きもある。カリスマになったり、礼儀知らずは仲間はずれにされたりという関係性もある。ゲームは、ひとりでやるものではなく、他のメンバーと共にチームで行うというソーシャルで、人間関係の要素が取り入れられているのだ。実際、スマホを取り上げられそうになった夜、メンバーとの「団体戦のチーム戦という大事な約束」があって、スマホを渡すわけにはいかなかったのだ。「日本ランクがかかっている対戦だったんだよ。そりゃキレるよ」とシゲルは言った。

 虫取りをする野原がなくなった都会の子供たちの間で「ポケモン」という怪獣集めのゲームが流行ったように、ゲームを作る側もニーズをとらえるのに必死であり、流行るゲームには子どもたち、そして大人たちのこころを掴むそれなりの要素がある。ネットに常時つながっているスマホのゲームは、さらにそこに交流と関係性と言う“ハマる”要素を加味しながら、その場を彼らに提供している。
 「何もしていない」のではなく、ゲームの中で、攻略、冒険、そして交流といった体験が営まれている。これが本当の交流と言えるのか?という大人たちの心配をよそに子どもたちはその営みの真っ只中で生きている。
 思った以上に複雑で入り組んだことがゲームで行われていて、ゲームの魅力だけではなく、交流も、その親密さも高いことに私は驚かされた。グループへの所属感、認められ、褒められること、本音を話せること、達成感を感じられること、などシゲルにとってどれも切実で大切であることがわかってくる。

 シゲルや他の子どものスマホ事情を知るにつれ、ゲームやSNSで行われていることに勝る興味深い体験や生きた交流を、私たちが作れているのだろうか?と問われていることを感じる。それに対抗できる、あるいはそれを上回る関係性とはなんなのか?すべて家族でできないとしても、その子が囲まれている環境にそれはあるのだろうか?
 スマホへの依存は、裏を返せば現実の欠落や欠損から生じている。子どもたちがはまっているスマホやゲームのコンテンツは、その子のニーズを表す合わせ鏡なのだ。
 こうして、スマホでしていることを聞いていくと、学校や家庭に不足しているものが浮かび上がってくる。シゲルが冒頭に述べた学校や家庭への不満が問題の肝なのだ。スマホは、安心の場であり、不在の父を補うための場としても機能している。そこは退避場であり、救護場でもある。
 そのことを無視して、闇雲にスマホを制限・禁止しても出口はないだろう。なんの補償もないままに。やっと見出した世界を取り上げるのだから、当然彼らは頑強に抵抗するはずである。その無理解は禁止する大人と子どもの信頼関係をさらに阻害し、悪循環を生じさせる。
 大人が「なにもしない でゲームばかりやっている」と認識し、一刀両断したら、子どもたちとの溝は決して埋まることはない。シゲルが頑なに抵抗することも、その気持ちもわからず、それに対抗できる関係を提供する機会も損なわれてしまう。
 スマホの中でいったい彼らは何をしているのか、そこに何を求めているのかを知り、理解する。それは、シゲルが本当に求めていること、家族が見失ってしまっていることを考える機会となる。そう考えてみると、スマホ問題は全く違った角度から取り組むことができるのだ。

(あざみ野心理オフィススタッフコラム改訂:事例は特定の人物を指さない架空の事例になります。)

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