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【寄稿】人を診るか疾患を診るか。妥協するか迎合するか。|池田健

 2022年3月に弊社より対談集『こころって、何?――芥川賞作家と精神科医によるこころの対話』が発売されました。
 本記事では、芥川賞作家・三田誠広先生と対談した精神科医・池田健先生による「書き下ろし寄稿」を公開いたします。
 実臨床における精神科医としての「落としどころ」をテーマに、精神科医として考える「ベストでなくてもベターな治療」についてご執筆いただきました。

 最初に自己紹介。筆者は一介の臨床医である。一応専門は精神科医(心療内科医)である。
 ただし諸事情により、現時点で診ている患者さんの年齢ギャップは常時、100才以上(例:最少年齢の方が7才。最高齢の方、110才など)になっている。
 諸事情というのは、後述する小阪先生との出会いにより身体科の治療の必要性を痛感し、臨床内科専門医、腹部救急認定医、糖尿病療養指導医などを取得した。
 結果として、主たる勤務先の病院では年中胸腹部のCT画像等を睨みながら、ヒューマリンのコントロールや中心静脈栄養の可否などに苦労している。
 要は「何でも屋」である。このため拙文は、何でも屋の「たわごと」だと眉に唾を付けて読んでほしい。文の性質上基本は精神科あるいは心理臨床に特化する。ケースはすべて架空の症例である。
 「病気を診ずして病人を診よ」これは脚気論争で当時の軍医総監、森林太郎というより小説家として名高い鴎外(森鴎外として知られているが正式には鴎外)を論破して、後に慈恵医大の創設者となった高木たかき兼寛かねひろの言葉である。
 
「病人を診るには、しっかりと疾患を診断することが大事」

 これは、恩師でありレビー小体型認知症の発見者として名高い小阪こさか憲司けんじ先生から口を酸っぱくして言われたことである。実は、この命題はイコールのように見えて精神科領域においては二律背反になりやすい。
 歴史上の人物である高木はともかく、「押しかけ弟子」として小阪先生の臨床を拝見した限り、この命題は矛盾せず、結果として先生は少量の薬物しか使用せずに患者さんやご家族から絶大な支持を受けた。大変手前味噌であり、他社の本で恐縮だが、詳細を知りたければ、小阪先生と小生の共著「専門医が語る認知症ガイドブック」(金剛出版、2017年)の特に第Ⅰ部の小阪先生との対談を参照いただきたい。また、より広く世相、発達障害、若者と心との因果関係を知りたいという方は約半世紀に及ぶ作家活動を継続しつつ文学部教授や学部長を歴任された三田みた誠広まさひろ氏との共著「こころって、何?ー芥川賞作家と精神科医によるこころの対話」(岩崎学術出版社、2022年)をご一読いただければ幸いである。

 さて、精神科における日常臨床や昨今急増した訪問診療では、「疾患ではなく症状を診た」結果として、向精神薬10剤前後という多剤併用療法を今も見かける。
 こういう患者さんが高血圧、2型糖尿病などという基礎疾患を持つ時に、身体科の薬物も5剤以上になっていることが少なくない。つまり「症状をターゲットにして疾患を見失った」結果、「人つまり本人らしさ」を診ようにも、もはや不可逆的な悪しき変化を遂げていることに驚かされる。
 ご家族に聞いても「昔はもっと元気だった」とは話してくれるものの、それが内服を始める前か後かは不明である。
 一番始末が悪いのは、その薬物が「何とか本人の苦痛を取り除いてあげよう」という良心的な医師による苦心惨憺の処方の結果であるという事実である。
 こうなると「人を診よ」という高木イズムも「疾患を診よ」という小阪イズムも、もはや手遅れである。
 やや厳しめに換言すれば「結果を考えずに、症状とそれを訴える人へ、良かれと思って迎合した結果の処方」が結果として人間らしささえも失わせたと断罪して良い。
 さて、対策として提案したいのが、早期から日常診療における「薬物を介在した精神療法≒SDM(シェアードデシジョンメーキング:Shared decision making)を含むカウンセリング」を一歩進んで当初から取り入れる工夫である。
 具体例をあげよう。

 「私は、今のあなたをうつ病だと診断します。うつ病の症状は多彩です。軽症のうつ病には学会は薬物療法を第一選択にしていません。どうしましょうか?」というのは「妥当な説明」である。
 これに対して患者さんが「つらいんです。私は軽症なんかではありません。どうしても薬を処方してください!」と反論なさったとしよう。症状を聞くと必須の診断基準である抑うつ感、アンへドニア(興味や喜びの消失)に加えて、睡眠障害、食欲低下、性欲減退などがあったとする。
 ここで、「この疾患あるいは症状に関して、抗うつ薬はむしろ性機能障害に拍車をかけることがあります。不眠もすぐに改善するとは限りません。それでも良ければ定評のある薬物を一種類使用しましょう。この薬物の主作用と副作用は……」というのは迎合ではなく治療的な妥協でありSDMを含むカウンセリングであろう。
 私の経験では約7~8割の方はこれで納得してくれる。残りの方は、やや腹を立てて「すぐにすべての症状が消えないとつらいんです。力を振り絞って受診したんですよ!」とご家族も含めて懇願される。こういう際には意図的に、まず「私は医者として力がなくてすみません」と謝る。もちろん誠意を込めて謝るが「こびへつらう≒迎合」とも言える。
 患者さんにとって期待外れの医者であることは事実だし、相手側からすると迎合してもらうことで少しは腹立ちが収まる可能性がある。頭を下げつつ、相手の出方をうかがう。
 ここで、さらに攻撃的になる人はほとんどおらず、前のような薬物使用可否のパターンを通じた、応用編のSDM的精神療法に持ち込める。それでもさらに攻撃的になったりするごく少数の方々には他の疾患やパーソナリティ要因を脳裏にイメージしつつ「次の一手」を考える。
 すべてが八方ふさがりになった時には空から見守ってくれている小阪先生に問いかける。

  このような治療は根気がいる。複数の薬物を最初から使い、症状が速やかに改善する治療の方が良いようにも思える。しばらく、時には再診場面も含めて、数か月~半年ほどの「押し問答」が続き、治療は膠着している感を呈することがある。
  しかし、複数の薬物で劇的に良くなったようにケースの多くは次第に薬剤耐性が形成される。「薬物によって劇的に症状が改善した」という患者さんの成功体験が裏目に出て「あの時のように、また薬を変えて症状を良くしてください」という要求が言語的、非言語的に示され治療は袋小路に迷い込む。
  他方、非効率的に見える「押し問答」は一見膠着しているように見えて着実にラポールは形成され、疾患は改善しているのである。その結果、数年、時には十年以上たって、「あの時はあなた実に大変でしたよね」「いや、本当にそうでした」という「深い真の共感」が生れた経験が数多い。また、患者さんは広義のレジリエンスを獲得しており、初老期、老年期、女性なら更年期を無事にくぐりぬけてくれる。
 このような工夫は、すぐ始められるであろう。臨床家の読者は騙されたと思って今日から始めてほしい。
 あるいは、読者が「治療を受ける側」だとしたら医者のリトマス試験紙として逆利用していただいて結構である。

 さて、最後に、冒頭にあげた、患者さんの年齢に100才以上の差がある話に触れる。
 児童精神科専門でもない私が幼児期、学童期の患者さんを診るのは「児童専門外来」は最低でも数か月待ち、あるいは一回診ただけで、継続診察の必要なしと言われたなどという事情が横たわる。100才以上の方を日常的に受け持つという背景には世界有数の長寿国という我が国の現状がある。
 前者の方、特にご両親には最低でも5、6年程度の時間が経過して「こんなに立派な中学生になりました。ありがとうございます。」、後者の方はお看取りが済んだ後、時には法要が終わった後に、ご家族から「最後まで看取ってもらってありがとうございます。」と言われた時に、軽い荷下ろし感、充実感とともに「迎合せずに良かった」という思いを味わう。
 経験年数が経つたびに、この思いは強くなる。時には涙腺がゆるみかけて取り繕うのに苦労することもある。これこそが自身への精神療法になっており、医師としてのアイデンティティを支えていると確信しつつある。
よってこの駄文を読者に捧げる次第である。

池田健(いけだ・たけし)
精神科医。1959年生まれ。順天堂大学医学部卒業。池田クリニック院長。立教大学現代心理学部兼任講師、日本女子大学人間社会学部非常勤講師。NPO法人「医桜」副理事長、日本ペンクラブ正会員。
2022年3月より、小社から『こころって、何?――芥川賞作家と精神科医によるこころの対話』が発売された。

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