【寄稿】齊藤万比古|子どもの心の萌芽と発達をめぐって
子どもの心の萌芽と発達をめぐって
子どもの心を対象とした治療・支援に関わってきた筆者自身を顧みると、力動精神医学の影響を受けつつ神経症的な子どもを対象とした精神療法、とりわけプレイセラピーに惹かれ続けた自分と、自閉スペクトラム症や注意欠如・多動症など体質的な脳機能障害を背景に持つ子どもの発達支援やその後の人生に関わってきた自分が、子どもの心はいかに芽吹き、成長していくものなのかを総合的にとらえようとして迷いつづけた過程に思えてなりません。その果てが見えたと思えたこともありましたが、そう思うたびにスッと消えてしまう逃げ水を追うような道程でした。
その見えたと思えた瞬間の例を挙げるなら、子どもの精神疾患がどのような過程を通って結晶化してくるのかという発症過程について筆者なりにまとめようとした際です。それは子どもの精神疾患、例えば注意欠如・多動症や重篤気分調節症と診断された子どもやその親と会いながら、この子の激しい癇癪やときにみせる落ち込んだ表情の後ろにあるものは何だろうと考えるようなそんなときなのです。
筆者が児童精神科医として歩きはじめた頃、時代は子どもの精神疾患の病因をひたすら母子関係に求め、母親の共感性や応答性の乏しさが病因とされることが普通でした。なにしろ、いまでは多様な脳機能障害が有力な病因とされている成人の統合失調症でさえ、養育過程での母親の支配性や冷淡さなどを病因ととらえ、「統合失調症を作る母親(schizophrenogenic mother)」という概念さえ大手を振って存在した時代ですから。しかし現在の目からは統合失調症発症の主要因を母親の養育の質に求めるという論理は明らかに誤りで、むしろ滑稽な単純化といわざるを得ません。しかしそうした思考のパターンは現在でもけっして止揚されたとはいえないのではないでしょうか。生物学的精神医学の基礎研究と臨床応用が隆盛を誇る現在では、かつて「母親の養育」に求めた病因を「(本人の)精神疾患への生物学的脆弱性」に求めるだけの論理が大手をふるってまかり通ってはいないでしょうか。しかし、それもまたかつてと同様の過度な単純化であり、人間の精神疾患の発症過程を説明する論理としてそのまま信じるわけにはいきません。
結局筆者がたどり着いたのは,生物‐心理‐社会モデルを当てはめ、それら各領域の相互作用の結果として生物学的脆弱性をカバーしきれないほどのストレスが持続的に降りかかると精神疾患は発症するという仮説です。この仮説は精神疾患の発症仮説にとどまるだけではなく、自己とその諸機能を自らの生来性の特性と、養育過程での養育者との相互交流から形成される特性との総合された結果ととらえ、しかもこの母親による養育は、母親を支える環境の心理社会的な質に大きく規定される点も含んだ包括的な心の発達論につながっていくと筆者は考えています。
子どもの体質的な要因を主とした臨床観と心理的な要因を主としたそれとを統合できる道筋が見えたと感じるもう一つの瞬間は、乳幼児の発達過程を総合的に理解するための自家薬籠中の発達論を持ちたいと努めるそのときです。もちろん現在に至るも自信を持って「わが発達論」といえるほど熟した論理に到達できてはいません。しかし、先人の複数の理論を横並びにして理解しようとする中で、早期の母子関係をめぐってそこに何が生じ、それが自己の発達にどのように寄与したり妨げたりするのかを、臨床で出会った母子と対照させながら「見えた」と思う瞬間はあったように思います。その例が感情調節機能の出現過程についての考察を進めていた際です。
感情調節機能の発達は子どもに生来備わっている衝動統制の生物学的素因を基盤としてスタートすると考えることは妥当でしょう。その感情調節機能の原器はそのままで機能できるものではなく、出生後の早期の母子交流の質と量から大きな影響を受けながら完成に近づいていく機能群といってよいのではないでしょうか。そして、感情調節機能が発達できる豊かな培地を提供してくれるのは乳児のアタッチメントと母親のボンディングという強い母子の結びつきに他ならないのです。このほどほどに湿り気があって暖かな培地の上で、例えば空腹を不快な感覚として知覚すると「なんだか嫌な感じ」の未分化な情動を生み、新生児や乳児は直ちに泣き叫び始めます。この「知
覚‐情動‐行動」という一連の体験が反復されるプロセスでDaniel N. Stern(ダニエル・N・スターン)が新生自己感と呼ぶ実感としての主体感や中核自己感と呼ぶ自己の一貫性の実感は形成されていくのではないでしょうか。この経過で乳児は不快な感情と快感とを何回も経験していくことになりますが、快感はともかく不快な感覚は乳児には耐えがたい経験なのに、最早期の乳児にはその解決策が備わっておらず、ただ泣き叫ぶしかできません。そこに母親が介入してきます。母親は乳児を抱き上げ、全力で泣き叫ぶわが子に「どうしたの、おなかすいたの」「ウンチしたの」などと声を掛けながら、腕と胸で抱え、柔らかくゆすりながらその瞳を見つめます。この母親の自分に注目した視線や語りかける声、抱えてくれる腕と胸の温かさといった一連の宥め行動に支えられて乳児は徐々に泣き声を弱め、その間に母親はその啼泣の原因を見つけ出し対処しようとします。こうした一連の母親の関わりは対処法を知らない乳児の未分化で強い不快な感情を乳児に代わって抱え、そして宥めてくれる行為です。そして不快感が解消すると「おなかいっぱいだね」「沢山ウンチできて偉いね」と母親が喜んでくれます。不快な耐えがたい感情を抱え、宥め、不快さの解消を喜ぶという一連の母親の乳児への働きかけはまさに代理的な感情調節の過程そのものなのです。それを母親がくりかえしているうちに、その一連の機能が乳児に取り入れられていき、やがて乳児自らの機能として使えるまでになると、それが感情調節機能の獲得なのです。後は成長の過程に沿って生じてくる新たな不快な感情に対処する経験をくりかえして感情調節機能を磨き上げていくだけです。もちろん母親の乳児への随伴的応答(乳児の表情や発声や表情を母親が乳児にまねてみせること)によって乳児が自分の「いま、ここで」の感情を母親の声や表情から感じ取る経験や、有標的ミラーリング(乳児の笑顔や啼泣に「うれしい」「悲しい」「怒ってる」などとマーキングして返すこと)によって感情の違いやその異なる感情にそれぞれ名前があることを知っていく経験が感情調節機能の成熟に欠かせない材料を与えてくれることも忘れてはならないでしょう。
児童精神科臨床で対応の困難さを感じるケースの大半は感情調節が難しく、すぐに怒りの沸点に達して手がつけられなくなる子どもであり、また見捨てられ感や罪悪感がすぐさま自己否定的な感情の爆発となって自傷行為や自殺行動に走る子どもです。ICD-11 に新たに採用された疾患概念である複雑性心的外傷後ストレス症(複雑性PTSD)の症状一覧にPTSD 症状の他に、感情調節困難、否定的自己概念、対人関係障害からなる「自己組織化の障害」が挙げられています。この自己組織化の障害の結果として感情調節機能の障害が生じうるというICD-11 の考え方は臨床的にとても有益な概念に思えます。そしてこの複雑性PTSDの病因として最も有力なのが児童虐待をはじめとする逆境的養育環境で育つことなのです。
以上の二つの私なりの器質因と環境因を統合的にとらえる機会を得たことは筆者にとって遅まきながら臨床活動の重要な基盤を与えられたように感じています。そしてこうした心の育ちとそこでの精神疾患発現に関する総合的な理解を支えてくれるのは、子どもの心や体だけではなく、養育環境の質や、それを支える社会環境の質を学際的にとらえる理論的枠組みではないでしょうか。特に、そうした枠組みを提供してくれると筆者が強く感じているのはメンタライジング理論であり、その理解に基づいた臨床活動であるメンタライジング・アプローチなのです。
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