長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす|小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか|片岡大右
※文中敬称略
1 はじめに――距離と想像力
遠くで誰かが苦しんでいる。わたしたちが直接現地に赴くことはできず、ただちに行動してその苦しみを解消させることなどできはしない、遠い距離の向こうのどこかで。そんな光景が突然、平穏な日常のなかに飛び込んできたなら、いったいどうすればよいだろうか。
フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーが1993年に著した『遠くの苦しみ』(La souffrance à distance、未邦訳)は、国際報道や国際人道支援運動の功罪が様々に議論された当時の状況のなか、距離を介した想像力の問題を思想史的背景のもとに論じた啓発的な著作だ。同書によれば、そうした光景を差し出された場合、具体的には何もしないにもかかわらず「まっとうとみなされる道徳的枠組みのなかにとどまる」ことを望むなら、方法がひとつあるという。
遠くの苦しみの拡散は、なぜ現実から離れ、事実を歪めることになるのか。拡散は基本的に、視点の複数性を消し去る。各自がそれぞれの視点に立ち、その苦しみとはどの程度のものなのか、あるいはそもそも実在のものなのかといった議論を始めるなら、拡散の勢いは削がれてしまうだろう。おぞましさは絶対的なものでなければならない。こうして人びとは単一の視点に立ち、その代わり、強い感情とともに拡散に努めることで個々の思いを表現しようとする。
検証を免除されたおぞましい光景が一斉に拡散され、各自のものでありながら奇妙なことにまったく同一のもののように見える強い感情――憤りが共有されていく。この感情はもはや、苦しんでいる誰かのケアには向かわない。それは被害者から離れ、加害者への告発として噴出する感情だとボルタンスキーは言う。
憤りと告発は、社会を動かす力になる。けれども問題は、それが事実を必ずしも尊重しないこと、様々な視点を許容するはずの複雑な現実を、ただひとつだけの印象を持つことしか許されないあまりにも単純な何かに――さらには偽りのイメージに――変えてしまうことだ。
苦しんでいる誰かの存在が強く確信されており、そこには検証の余地などないとされているとき、歯止めのかからない告発はどこまででも激しくなることができる。例えば、こんな風に。
憤激から告発へ、さらには糾弾へと続く一連の流れに身を委ねるとき、ひとは不幸な誰かの苦しみを口実にして、自分自身の加害への衝動を満足させているのではないか――このように問いかけるボルタンスキーは、フランス革命期の恐怖政治を論じるハンナ・アーレントを引き合いに出しながら、弱者から強者へと向かい激化するこうした告発が、どのような効果をもたらしうるのかを説明している。
アーレントによれば、「われわれを弱き人びとに引きつけるかの重々しい衝動」(ロベスピエール)といったものを唯一の原理とすることで、フランス革命は意見の多様性を押しつぶす暴力へと道を開くことになった。また彼女の指摘のなかで注目に値するのは、不幸な人びとへの思いは、最初は具体的な個人を念頭に置いていても、たやすく抽象化され、現実から遊離してしまうということだ(『革命について』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、第2章)。
2021年7月、小山田圭吾はインターネットでの「炎上」を機に過去の発言が国内外のメディアで報道されるなか、東京オリンピック・パラリンピック開会式の音楽担当を辞任することになった。
取り沙汰されたのは、1990年代半ばの雑誌インタビューに掲載された、学校生活時代の「いじめ」をめぐる発言だ。それも、障害のある生徒が対象となったとされることから、とりわけパラリンピック開会式への関わりが問題視されたのだった。
騒動の影響はさらに広がった。放送開始以来10年にわたり中心スタッフとして音楽を担当してきたNHK Eテレの人気番組「デザインあ」は放送休止となり、メンバーを務めるバンドMETAFIVEの新アルバムはプレス済みであるにもかかわらず発売中止(延期ではなく!)となり、ソロプロジェクト「コーネリアス」としてのフジロックフェスティバルへの出演は見合わされた(注1) 。9月になって、小山田は『週刊文春』の取材を受けるとともに、公式ウェブサイトおよびSNSを通して改めて謝罪と経緯説明を試みたものの(注2)、事態の打開にはほど遠い状況と言わざるをえない。
いじめは許されないということは、今日ほとんど反論不能の倫理的規範の一部となっている。けれども、炎上時に52歳、1969年1月27日生まれのミュージシャンの小中高時代と言えば30数年から40数年前、一連の出来事がインタビューで語られたのも四半世紀前にさかのぼる。12年間の学校生活のなかで(注3)、彼がどのような行為にどのようなかたちでどの程度関わったのか、行為の対象となった生徒の当時の苦しみはどの程度であり、それを今なお抱えているのだとして、その深刻さはどの程度のものなのか。
ボルタンスキーは1993年に、遠くの苦しみが引き起こす感情は報道という媒介を通してもたらされる感情であると指摘しつつ、こうした「メディア由来の感情は、現実由来の感情とフィクション由来の感情のあいだで不安定な位置を占める」と論じた(9章3節)。わたしたちが経験したばかりの2021年の炎上では、媒介性の問題はいっそう複雑なものとなっている。ジャーナリズムの報道に先立ついじめの事実自体、加害者とされる人物のメディアでの四半世紀前の発言を通してしか知られていない。しかも、1990年代半ばと2021年のあいだには――のちに検証するように――、アンダーグラウンドな領域を含めたウェブ空間での動きが介在している。
それでも、憤り告発する無数の第三者にとって、判断材料の不確かさや乏しさは必ずしも問題にはならないようだ。そもそも多くの人びとはこの個別的な事例自体に関心があるのではなく、自分自身の経験や「いじめ」をめぐる通念を根拠に小山田の一件を判断している。アーレントが述べたように、不幸な誰かへの思いはたやすく個々の具体的な状況を離れ、被害者像は――それに伴って加害者像も――抽象化されてしまう。各自が自分の経験や一般的な通念を投影しながら憤りを小山田圭吾にぶつけることができるのは、このような心の働きによっているのだろう。
こうして、遠くの苦しみが拡散され、広く共有された憤りが「加害者」への告発を加熱させるという流れのなかで、判断材料の検討は無用とされてしまった。ボルタンスキーは、遠くの苦しみを拡散し加害者を告発する第三者の言葉について、このように述べている。
この社会学者が続けて述べるところでは、こうした場合に感情の力を抑制するには2つの手段しかない。第一に、憤りの感情が向けられている「事実」を検証すること。第二に、告発しているひとの意図を問い質し、憤りの感情がまっとうなものかどうかを見定めること。
本稿は、2021年夏の国際的なスキャンダルに関して、この2つの作業に取り組むべく書き始められた。
今回の件では、とりわけ第一の作業は複雑なものとなる。問題とされる「事実」が、大きく言って3つの時期、3つの局面を経て形成された複合的な構築物だからだ。第一に、小山田の小中高校時代の出来事。第二に、1990年代始めから半ばにかけて、ミュージシャン小山田が雑誌で語った(あるいは語らされた)こと。第三に、2000年代のアンダーグラウンドなサイバー空間で生成され、あるブログを介して2010年代を通して広く共有された小山田像。
この第三のものをそのままある大新聞が内外に報じたことで、小山田圭吾の音楽家としてのキャリアは中断を余儀なくされることになったわけだけれど、それではこの小山田像はどの程度現実に即しているのか。
その点を検証するために、全5回からなる本稿は、まず(1)において、奇妙なことにほとんど言及されることがないソロデビュー以前の重要な雑誌記事(『月刊カドカワ』1991年9月号)を取り上げ、そこで障害のある児童・生徒との交流がどのように語られていたのかを見る。
続く2回は、2000年代から今回の炎上に至る過程で主要に言及されてきた2つの雑誌記事の成立の背景を扱う。(2)では、小山田自身の不用意な「いじめ」発言の背景と、そうした発言に飛びついてそれを誇張的に歪めた『ロッキング・オン・ジャパン』編集長(当時)山崎洋一郎の思惑が分析される。
(3)では、その記事を真に受け小山田を「いじめっ子」代表と見込んで企画を立てた『クイック・ジャパン』編集部のライター(当時)村上清と、同記事によって広まった重大な誤情報だけは修正したいと考えて取材に臨んだ小山田の破局的な同床異夢から生まれた、「いじめ紀行」第1回という厄介で両義的な雑誌記事の内容が検討される。
続く(4)は、この「いじめ紀行」の背景を、しばしば安易に結び付けられる1990年代の「鬼畜系」や「悪趣味系」といった過去の一時期の事象よりも広い文脈で理解するために、1980年代半ばに成立し今日に至るまでわたしたちを拘束し続けるいじめ観それ自体の問題を論じる。
最後の(5)では21世紀のサイバー空間に焦点を当て、巨大匿名掲示板を中心とするアングラ的な「エコーチェンバー」の内部で生まれた歪曲的な小山田像が、2021年夏の爆発的な「インフォデミック」を引き起こすまでの経緯が辿られる。
* * *
開会式の音楽担当辞任表明の直前、炎上が熾烈をきわめていたころ、「Yahoo!ニュース(個人)」に発表の場を持つジャーナリスト今井佐緒里は「小山田氏は「社会の越えてはならない一線」を越えてしまったのだと思う」と感想を記し、イタリア画家カラヴァッジョの生涯――この天才画家は、度重なる乱闘の果てに殺人を犯しローマを追放された――を想起しつつ、「コーネリアスにとってのナポリやマルタ島を探すのが良いのだろう」と提案していた。小山田圭吾はもはや、オリンピック・パラリンピックへの関与はもちろんのこと、自国での――さらにまた、国際的に報じられた以上は、米国を始め国外の多くの場所でも?――活動全般を許されずとも仕方がないというのだ。
ここで誇張と言うべきなのは、小山田圭吾の才能をカラヴァッジョのそれになぞらえている点ではない。誇張は、学校時代から現在にかけての人生のなかで、小山田がバロック期の放埒な天才に匹敵する行状を示してきたかのように示唆している点にある。
本稿を通して、到底そのようなことは言えないことが明らかになるはずだ。けれどもある意味で、この比較は適切なものだとも言える。今井が漠然と囚われているような負の神話は解体されるべきであるにしても、カラヴァッジョの天才性はやはり、当時のローマの猥雑な活気のなかを生き抜いた荒々しい人となりを抜きにして考えることはできない。人と作品が決して無関係ではないというこの事情は、小山田についても同様だ。
それではわたしたちは、凄惨ないじめ加害者としてのイメージの妥当性を再検討する過程で、小山田圭吾とどのように出会いなおすことになるのだろうか。
2 小山田圭吾とはどのような音楽家なのか
そうした検討作業に先立って、まずはすべての前提となる事実を確認しておこう。小山田圭吾は間違いなく、過去四半世紀の日本の音楽を世界に向けて代表するひとりだ。あるいはむしろ、このような評価はかえって不当だとさえ言えるかもしれない。小沢健二とのデュオ、フリッパーズ・ギター(1989-1991)解散後にCornelius/コーネリアスを名乗ってソロプロジェクトを始動し(1993-)、「渋谷系のプリンス(注4) 」として首都の一角の文化的環境の顔とみなされた音楽家は、1997年の傑作『Fantasma』の全世界リリースにより世紀末日本文化の粋を体現する存在として惑星を驚かせたのち、2001年の『Point』に至って、特定の地域性を超えたところで聴かれる普遍的な音楽のつくり手となった(注5)。
「from Nakameguro to Everywhere」――渋谷のようなシンボリックな街ではない匿名的な場所から発せられ、どこにでも届く音楽。『Point』のジャケットに記されたこのメッセージは、やがて再開発により様変わりした中目黒からスタジオを桜新町に移したのちのリイシュー版(2019)で「from Here to Everywhere」と改められただけにいっそう、今日の小山田の音楽に対する姿勢を明確に表現している。
『Point』以後の20年、コーネリアスの音楽を必要とする人びとが世界に絶えることはなかった。ここではそのことを、現時点での最新アルバム『Mellow Waves』(2017)発売時の2つの有力メディアの記事を通して確認するにとどめたい。
北米をはじめ世界中の若い世代の支持を集めるデジタルメディアVICEの音楽部門Noiseyは、「コーネリアスの甘く柔らかな波に身を委ねる」と題した取材記事を掲載、インタビューの前文で11年ぶりの新作をこのように歓迎した。
今や既存の音楽誌を上回る権威を得るに至った北米の音楽レビューサイト「ピッチフォーク」もまた、先行シングル曲「あなたがいるなら」を「Best New Track」に選び「コーネリアスが帰ってきた」と歓迎したのちに、アルバム評ではこのように結論づけている。
『Point』に戻るなら、この作品はまた、音楽と映像をシームレスに結びつける新しい探究の出発点ともなった。この時期以降、コーネリアスはライブとミュージックビデオを通し、楽曲と不可分の印象を与える鮮やかな視覚上の冒険によっても国内外で注目を集めてきた。とりわけ、映像面での主要なパートナーとなった辻川幸一郎の貢献は大きい。
「Drop – Do It Again」のビデオは2000年前後のデジタルフィルムの世界的ショーケースだった米国レスフェストでベストオーディエンス賞を受け(2003)、「Fit Song」のビデオは日本の文化庁メディア芸術祭のエンターテインメント部門で優秀賞を受けた(2006)。「21世紀の音楽と映像(Music and Motion Pictures of the 21st Century)」を謳って2008年に発売され、第51回グラミー賞の最優秀サラウンド・サウンドアルバム部門にノミネートされた『Sensurround + B-sides』――2006年のアルバム『Sensuous』全曲のミュージックビデオ集にB面集のCDを併せた海外版――も、直接の評価対象はフリッパーズ時代からの付き合いであるサウンドエンジニア高山徹との共同作業だけれど、上記「Fit Song」を始め映像の大半は辻川によるものだ。
その辻川を映像監督のひとりに迎えた東京2020オリンピック・パラリンピックの開会式(2021.7.23)で小山田圭吾が作曲を務めるというのは、だから過去20年の日本人による文化実践の最も先鋭的な部分がどこにあったのかを思い、それが獲得してきた国際的反響に鑑みるなら、最良の選択肢のひとつだったと言えるだろう。
こうしたことを書き連ねてきたのは、21世紀の小山田圭吾が、その評価の国際的な広がりの一方で必ずしも多くの同国人によって知られた存在ではなく、一般的なマスメディアでその名が口にされる場合には、1990年代にある程度の社会現象となった「渋谷系」の文脈との関係でのみ紹介されがちだという事情があるからだ(注6)。
そしてここで、自分の音楽が内外の限定的なオーディエンスに高く評価されるという今世紀の展開に、小山田がすっかり満足していたわけではなさそうだ、ということを強調しておく必要がある。『Fantasma』を経て『Point』で到達することができた地平の独創性に深い自信を持ちながらも――「『POINT』以降に関しては、ほかに似たものがない。ここにしかないって手応えがある」(『ミュージック・マガジン』2013年12月号、35頁)――、この新しい音楽が、少なくとも国内でリスナーの減少を招いたという事実を、彼は最近になっても気にかけている。
『Point』発売時、『ロッキング・オン・ジャパン』2001年11月号のインタビューで、小山田は前年冬に生まれた子どもとの関わりをひとつの契機として、音楽との新しい付き合い方へと導かれたことを証言している。レコードやライブからの触発にもまして、日々の現実のなかから生まれてくる音楽。鳥たちや虫たち、そして水の音といった現実を入り口にして展開され、脱線の果てにまた現実へと連れ戻されるような音楽。
こうした新しい音楽の試みについて語ったのち、聞き手の鹿野淳に今回の作品と「ポップミュージック」という言葉は結びつくのかと問いかけられて、小山田は「これがポップミュージックだったらいいなあっていうのは、ある」と答えている(49頁)。けれどもすでに見たように、今日なお新鮮なこの傑作アルバムは、ポピュラーな流通性の点では満足のいく成果を挙げることがなかった。
『Point』以後の彼は内外で「ミュージシャンズ・ミュージシャン」のような地位をいっそう確かなものとしていったけれど(注7)、現実の世界との結びつきを深めたはずの自分の音楽を通して、もう少し広く社会とつながることができたら、という思いが失われることはなかったように思われる。そんな小山田にとって、NHK・Eテレの教育番組「デザインあ」(2011年4月より本放送開始)の音楽を担当し(注8)、創造的な音楽によって子どもたちの日々と関わるようになったおよそ10年間の経験が、どれほど喜ばしく充実したものだったのかは想像に難くない。
夏の騒動ののち、彼は2021年9月17日に発表した「お詫びと経緯説明」で、次のように記している。
東京オリンピック・パラリンピック開会式の音楽担当を引き受けたのは、豊かな才能をもって社会と関わることを喜びとするこのような芸術家だった。
3 反五輪的情熱のなかで
そんな小山田は、どのようにして辞任を余儀なくされたのか。決定的な役割を果たしたのが、SNSの「炎上」を内外に報道した毎日新聞であることをここで確認しておきたい。
7月23日の開会式で小山田圭吾が作曲を担当することが発表されたのは同月14日夜、おそらく21時台だと思われる(注9)。そして翌日のツイッターの「炎上」を、毎日新聞はその日の夜には報じてしまう。以下、この宿命的な1日のツイッターの動向(キーワード:小山田圭吾)を簡単にたどり直してみよう(注10) 。
発表後数時間は歓迎の声に占められていたものの、日付が変わって深夜1時43分と45分に、問題の件を深く心にとどめてきたらしい人物により最初の告発的ツイートが投稿される。
この2つのツイート自体が大きな反響を得たわけではないけれど、この問題をめぐる反応のひとつの典型として記録に値するだろう。いずれにせよ、15日早朝、「小山田圭吾」が日本語ツイッターのトレンド入りするころには、喜びの声に混ざってこうした反発が大きく広がっていた。反発の声のなかには、この件についてもともと意見を持っていた人びとのものもあれば、今回初めて情報を得てにわかに憤激した人びとのものもあった。
そして決定的だったのは、午前7時43分に投稿された以下のツイートだ。
自公政権と五輪開催への反対姿勢で知られ、約2万5千フォロワーを抱える有力アカウント「はるみ」によるこのツイートは、大規模に拡散された。リツイートしたなかには、毎日新聞デジタル報道センターのある記者の個人アカウントもあった。そして早くも同日19時59分には、同センターの別の記者により毎日新聞デジタルに記事が掲載される。「小山田圭吾さん、過去の「いじめ告白」拡散 五輪開会式で楽曲担当」(16日朝刊28面にもほぼ同文が掲載)。冒頭を引用しよう。
その後に同記事は、「炎上の発端」として上記「はるみ」のツイートに、アカウント名を明示することなく言及する。1990年代の雑誌2誌のインタビューを根拠に、そのツイートでは「小山田さんが通っていた私立小学校から高校で、障害者とみられる同級生2人をいじめていたと明かしたとされていた」のだという。
問題の雑誌は、『ロッキング・オン・ジャパン』1994年1月号と『クイック・ジャパン』3号(太田出版、1995年)だ(以下、ときにそれぞれ『ROJ』、『QJ』と略記)。実のところ、「はるみ」のツイートの直接の根拠はこれらの雑誌記事それ自体ではなく、両者を引用し論評するあるブログ――のちに検討する「孤立無援のブログ」――の記事であるにすぎない。その意味でこの毎日の記事の記述は正確さを欠く。
おそらくそうした指摘を想定していたのだろう、この記事には『QJ』のインタビュー記事のコピーの写真が添えられている。「はるみ」のツイートに代わって原典に当たる労を取り、引用箇所がたしかに誌面にあることを確かめて、炎上には正当な根拠があるのだとアピールしたかったのだろう。ただし記者は明らかに『QJ』記事の全体を丁寧に読む努力をしておらず、そのため元のブログ記事の偏見に満ちた読解をそのまま引き継ぐことになっている。
この記事を執筆した山下智恵記者は16日14時半過ぎに、次のようにツイートした。
この観点からすると、憤りの向かうべき先はアーティスト当人である以上に五輪組織委員会であることがわかる。本稿「1」で掲げた第二の課題、つまり告発者の意図を探るという目的の一端は、こうしてたやすく達成されてしまう。先ほどツイートを引いた「はるみ」にしても、「こんなのオリパラの作曲させるのか…」というときに考えているのは、よりよいオリンピック・パラリンピック開会式の実現ではない。「こんなの」に仕事を任せるような五輪組織委や政府を告発したいという情熱が、このようなツイートを書かせている。
7月16日18時半過ぎに、ツイッターのコーネリアス公式アカウント上に小山田圭吾の謝罪文が投稿される。毎日以外の主要紙はそれを受けて初めて、同日夜または翌17日午前中までに、この件に関しウェブ上に記事を掲載した。日経新聞、産経新聞、東京新聞の記事は共同通信ベースであり、読売新聞の記事もそれに準じるごく簡潔なもの。いずれの記事も無記名だ。謝罪文発表を待って記事化するというのは、ツイッターでの炎上段階で取り上げることは差し控えるという慎重さの表れだろうが、そもそもこの問題に関する強い関心が感じられないようにも思う。
なお、朝日新聞は記者2名の記名記事を掲載した。kobeniが適切に指摘しているように、『QJ』の記事に実際に当たり、事実として報道できる部分を丁寧に見極めようという姿勢で書かれている印象だ。
インターネットの「炎上」を報じ、ただちに英語版も公開した毎日新聞は、この件を内外の主要メディアで扱われるにふさわしい大問題として確立するのに決定的な役割を果たした。問題は、性急に書かれた山下記者の記事が、雑誌原典に当たったという口実のもと、実際には最初に閲覧したブログ記事の偏見――そこでブログ主は、2000年代の「2ちゃんねる」由来の小山田圭吾像をそのまま記事化している――に大メディアのお墨付きを与え、内外に向けて広く拡散を促すことで、近年の米国で「情報ロンダリング」と呼ばれる操作を遂行する結果となっているということだ。
4『月刊カドカワ』1991年9月号――「K」との日々の重み
この問題については本稿(5)で主題的に検討することとして、まずは小山田圭吾が1990年代の雑誌に残した一連の発言を、その文脈を含めて見ていくことにしたい。
小山田はいじめ、それも「障害者とみられる同級生2名」へのいじめのために告発された。けれども、根拠とされる1994年と1995年の2誌に先立ち、彼はソロデビュー前の『月刊カドカワ』(角川書店)1991年9月号で、すでに障害のある児童・生徒との関わりを語っていた。そしてこの記事からうかがえる関係性は、いじめっ子/いじめられっ子というのとは異なっている。
フリッパーズ・ギター特集の一環として掲載されたこの「スピリチュアル・メッセージ」(インタビューを長い独白として構成した同誌恒例の記事)で、彼は小学2年時のある「知恵遅れの子」との出会いを振り返っている。なお――この言葉の使用までも差別意識の表れとして糾弾する向きがあるので付言しておくと――、「知恵遅れ」という言葉は当時、当事者家族や教育現場でもふつうに用いられていた(注11) 。
小山田は小学校から高校までの12年間を、和光学園の生徒として過ごした。障害のある児童・生徒を普通学級に受け入れるこの学校の独自の体制については、のちに詳しく触れることにしたい。
ここで「K」として登場する児童は、数年後の『クイック・ジャパン』誌上に「沢田君(仮名)」として再登場し、小学校から高校にかけての関わりが改めて語られることになる。この1991年の『月刊カドカワ』誌上でも、Kは小・中・高すべての時期の回想で多少とも言及される唯一の人物であり、小山田の学校生活全体の中で最も記憶に残った学友のひとりだったことが察せられる。
では次に、彼の中学時代の日々のなかに、Kがどのように現れていたのかを見てみよう(350頁)。
まず確認しておくと、最初の引用中には「高三まで同じクラス」とあったけれども、のちの『QJ』での発言からすると、中学時代の2人は別クラスだったようだ。とはいえ上記引用にあるように、小山田はそもそもわずかな例外を除き同クラスの友人を持たず、趣味を共有するクラス外の友人と行動をともにするようになっていた。中学時代のKは、別クラスであるばかりか音楽の話をするような仲でもなかったことから、このように遠くから観察するような語り口での言及にとどまっているのだろう。
しかし同級生に戻る高校時代の回想では、Kとの「密接な関係」の始まりとそれが彼にもたらした深い印象が具体的に語られる。以下、長くなるが該当部分全体を引用しよう。
中学・高校時代の小山田は、後輩のひとりが「本人は嫌がりますけれど、やっぱり小山田さんは和光を引っ張っていた」と証言するように紛れもない人気者だった一方(注12)、決して優等生ではなく、この『月刊カドカワ』の記事でも、高1の時点で和光大学への進学を諦めるほど遅刻・欠席が多かったことを認めている(352頁)。
やがてフリッパーズ・ギターの活動をともにすることになる小沢健二とは、和光中で同学年だった時期にはさほど親しくなく、小沢が和光を離れ神奈川県立多摩高校に進学したのちに音楽を通して友人となったのだという。放課後に待ち合わせ、お茶の水の貸しレコード屋ジャニスで大量のレコードを借りてから、小沢宅に行ってそのまま泊まってしまうこともあった。「小沢は学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)」(同頁)。
そんな高校時代の彼がそれでも学校に顔を出した際、クラスで唯一の、というのは誇張が過ぎるのだろうが数少ない話し相手となったのがKだったということだ。先ほど引いた回想からは、この同級生が健常者とは別のやり方で発揮する知性を前にして小山田が感じた驚きと賛嘆がよく伝わってくる。
隣席のKの鼻水の様子を気にかけながら、彼は今目に見えているものは見せかけにすぎないのかもしれないという意識に捉えられていた。もちろん、Kが実際に「森鷗外の小説を読みながら歩いていた」というわけではないだろう。重要なのは、小山田はこの知的障害のある生徒を、健常者と社会生活を共有することの困難な「弱者」というよりも、健常者とは別のチャンネルを通して世界と触れ合い、常識的な眼差しに映るものの一面性を思い知らせてくれる存在とみなし、ある意味では分け隔てなく、ある意味ではかすかな畏怖をもって付き合っていたのだろうということだ。
ふつうそのように見える/聞こえる、というときの「ふつう」を信用せず、思いがけないアプローチで世界に触れ直すことを可能にするこうした感覚が、コーネリアスの全音楽を――さらに言えばヴィジュアル面での探究を含めたアーティストとしての全冒険を――支えている。そのように考えるなら、あの遊び心に満ちた「思ってたんとちがう」をはじめとする「デザインあ」の中心スタッフとして、放送開始以来そのサウンドトラックを担ってきたのも当然だと言えるだろう。
さらに言えば、「弱者」への思いやりといった表面的な次元とは一線を画したところで障害者と関わりながら少年期を過ごしたように見える卓越したミュージシャン以上に、パラリンピックの幕開けに音楽を添えるのにふさわしい存在はそうはいないのでないかと思えなくもない――少なくとも、この『月刊カドカワ』の記事を読む限りでは。