線でマンガを読む『中村明日美子 後編』
マンガを読むさい、私たちは、無意識のうちにそこに描かれているものを「絵」と「コマ」に分け、前者がマンガの"中身"で、後者はその内容を伝達するための"容器"のようなものと考えている。そういうルールが刷り込まれているからだ。しかし、そのルールをいちど忘れてみたとき、両者に何らかの違いはあるだろうか。
乾パンなどでつくった「食べられる容器」というものがある。なかに入っている料理を食べたのち、それ自身も食べてしまえるような器。マンガの絵とコマの関係も、じつはこれに近いのではないか。その両者、さらに言えば効果線やセリフのフキダシといったものも含め、本質的には皆おなじ。それらは「線」なのだ。
中村明日美子の『コペルニクスの呼吸』を読んでいると、「描かれるものはすべて等しく線である」という意識を非常につよく感じる。前編で紹介したコマには、もうひとつ留意すべき点がある。
『コペルニクスの呼吸』中村明日美子
上段のトリノスの顔。ベーシックなマンガのルールでは、絵と効果線はあくまで別種のものだ。以下、考察のために私が加工をした図版を見てほしい。
ふつうなら、このように、絵と効果線を組み合わせることによってキャラクターの感情を演出する。しかし、中村のやり方はちがう。彼女は絵と効果線を別々のものとして扱わない。トリノスの毛髪の流れを、そのまま効果線として使ってしまうのだ。
2コマ目も同様で、サーカスのテントの模様がそのまま効果線として使われている。中村においては、絵と効果線の区別は意図的に曖昧な状態におかれている。一本の線が、「絵」「コマ」「効果線」のいずれか複数の役割を担う。そのことにより、中村のマンガはオリジナリティを獲得することに成功している。
こんなことができるのも、冒頭に見たように、すべてのものは本質的に同じ線から出来ているからなのだ。こんどは絵とコマのボーダーラインの曖昧化がなされている例を見てみよう。
『コペルニクスの呼吸』中村明日美子
このページは、ぱっと見は、コマ割りのない大きな一枚の絵に見える。しかし、そうではない。人物の体のラインや紙の毛などの描線が同時にコマの枠線の役割を果たすように設計されている。
このように、概ねではあるが5つのコマに分節化することができるのだ。これは、「コマがあるゆえに読みやすい」というマンガの利点を最低限維持しつつつ、かつデザイン的な美しさを両立させようとした挑戦的な試みであると私は思う。それは、多角形のコマで区切られたオーソドックスなマンガに比して、しなやかで、自由だ。これを実現するにはかなり綿密な計算とセンスが必要になるはずだが、幸いなことに中村はそれらの能力を持っている。次に紹介する図版についても、オーソドックスなコマの枠線を一切つかわずに、視線誘導がしっかり設計されている。
『コペルニクスの呼吸』中村明日美子
ダンサーの体→飛行ブランコ→トリノスの顔→ゾウ→トラが連なり、それらの描線に身を委ねてゆくと、自然にセリフを通過するという見事な一頁。描線は、ときに人や動物の形となり、ときにコマの枠線となり、セリフのフキダシとなる。めくるめく線の変移によって表現された世界。アクロバティックな技巧に思わずため息がこぼれる。ぜひ一度手にとってじっくりと、すみずみまで眺めてほしいマンガだ。
write by 鰯崎 友
※本コラム中の図版は著作権法第三十二条第一項によって認められた範囲での引用である。
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