自分は少し気になってても、自分からは誘えない人って案外多いのかもしれない。 私からごはんに誘うと、 秒速で、行こう!という返事が返ってくる。 よくよく話をきいてみると、 二人で行きたいと思ってたけれど、 相手が自分をどう思ってるか分からないので、自分からは誘えない。 そういう男の子に、たまたま立て続けて出会った。 私が今回気づいたのは、 自分が誘いたいと思う時、 相手も同じように仲良くなりたいと思ってる可能性はけっこう高いのかもしれないということ。 私は、本気
わたしは人との距離感が掴めず、 人との関係を築くのが苦手だった。 裏表があるタイプなので、 調子がいいときには人と距離を詰めることはできる。 でも調子のわるいとき、距離をとってしまう。 距離を取るときの断り方が本当に不器用なせいで、相手に突然シャッターを降ろされたように感じさせてしまうことが多い。 こうやって、 人との関係を保ち続けることがなかなかできなかった。 だが1つ気づいたことがある。 それは、私は四六時中一緒にいる人には理解してもらえるのかもしれない、という
人と人は、みんな距離が近いほど いいとは限らない。 私は、仕事に関する人との距離感は ほどほどでいいと思う。 その仕事の話をしたり、 仕事をどう捉えているのかを 深く話し合うのはとてもいい。 それだけでも、いいと思う。 プライベートのことや、いらないことまで話すのは、必ずしもいいとは限らない。 知らない部分があるくらいがちょうどいい。 その仕事に対する気持ちでつながっていれば、それだけでいいと思った。 恋愛関係なら話しすぎてもいいが、 仕事の仲間で、仕事で
職場で今、充実した気持ちで働けていないということを うちの職場、暇なんです。と書いた。 あれから、上司にそれを打ち明け 話を聞いてもらった。 それから少し時間をおくと、自分が何に不満を抱いていたのかが分かってきた。 私は、飽きっぽい。 一つのことを続けられない。 ただそういう性格だ、ということが はっきりと分かったのだ。 そうと分かれば、あとはやるだけだ。 自分の好奇心を満たす新たな場所へいくしかない。 そして、そこで飽きたらまたその時考える。 結婚したり、子育
疲れた。 何もやる気がでない。 明日も仕事だ。 いつから誰とも遊ばなくなったんだろう。 どんなふうに笑ってたんだっけ。 誰かが好きとか、一緒にごはん食べたいとか、思う人がいないなぁ。 きっと一人で暮らして生活して働くことに気を張ってるからだな。 私ってこんなだったっけ。
毎日顔を合わせる人には、感謝の心を忘れてしまう。 気を許して 遠慮をしなくなっていってしまう。 今の私の場合は、職場の同僚だ。 日々、何でもないことをただ話し、 一緒に働いている。 ほとんどの時間をその子と過ごし、 たくさんの時間を共に過ごしている。 一人暮らしの私にとって、毎日一緒にいるその子は、同僚兼友達のような感じだ。 だが、毎日一緒にいることに慣れすぎて、その存在の有り難さを忘れてしまっていた。 だから、自分のことばかり考えて、 相手を適当に扱うような言葉を
役割は必要だ。 仕事でも、家族でも。 私は自分の役割が欲しくてたまらない。 必要とされている、と思えるから。 でも一方で、必要とされてなくてもいいんじゃないかとも思う。 「自分が必要としているから」 という理由だけで 何かを選んでもいいと思う。 もし、向こうから必要とされず、 自分が必要ともしていないなら、 なぜ自分はそこにいるのだろう。 以前は、そこを必要としていたからだ。 だからそこを選んだ。 そこから1年、2年と時間が過ぎ、変わっていく。自分自身も。周りの
人と話すことって楽しい。 そう思ったのは、アルバイト先のカフェでのこと。 いつもより少し暇だったので、 パートのおばちゃんと話すことにした。 あまりちゃんと話したことがなかったし、年も離れていたので、最初は少し壁があった。 けれども、 「恋人はいるの?」と聞かれたところから会話のスピードがぐんとあがった。 わたしは、 「いないんですけど、、」と答えた。 でも、ホントは欲しい、結婚もしたい、でも結婚してからのことは不安で。 そんな正直な想いを話せた。 友達や親には、少
ある日何かに出会って、 「これは好きすぎる」 と思った時に、胸の奥から ぞわぁぁぁぁって、何かが込み上げてくる感覚。 体の真ん中を、何かが貫くような。
忙しいときは心がざわざわする。 何かを感じたり、味わったりする余裕がない。 頭の中が予定でいっぱいで 「いつまでに〜しなきゃな」 「明日のために今日は寝ないとな」 そんな感じで、予定に合わせて 自分を動かしている感じがしていた。 一方で、忙しくないときは 一言でいうと、静寂。 ざわざわしてなくて、自分の声が聞こえる。 何かを感じたり、味わったりすることができる。 特に思ったのは、冷えた麦茶がすっごく美味しいってこと。 普段の、週に2日の休みの日は、無意識になにかを
それは「遊ばない」こと。 遊ぶ、をしないと心が死んでいく。 やってみたい、を日常的に抑え込むと 心が死んでいく。 万一のことを恐れるがために、 自分の限界を超えてみたい 自分の知らない世界を知りたい という 自分で育ちたいという思いがベースの やってみたい、を抑え込む。 これが、心を死なせる方法。らしい。 これを読んだとき、 ドキッとした。 学校に、部活に、会社に、 順応しようとして 抑え込んでいないか。 やってみたい、を抑え込むと同時に やりたくない、も抑え込
今感じてることを率直に表すと 「仕事がなくて暇」である。 以前より仕事量が減って、暇なのである。 だけど、なぜか暇だとは言ってはいけない気がする。 仕事は与えられるものではなく、 自分で考えて、生み出すもの。 自分で見つけるもの。 探せば色々ある。 そう頭では思って行動するのだが 実際は「してもしなくてもいいようなこと」を探して、時間を埋めている感覚に近い。 人手がギリギリだと、休みが取りづらかったり、仕事に追われてしまう。 だが一方で、自分が必要だという気持ちも生ま
自分が本当に気になる人には気持ちを隠すのに 好きでもない人には、愛想よく話をしている 素直になろう 嫌いな人に嫌われてもいいや 好きな人に好きだと伝えられたら それでいい
わたしは女だ だが、男の子のほうが 話が合う 波長が合う 落ち着く 一緒にいたいと思う 恋人がいる男女が 二人でごはんに行ってはいけないらしい 自分が男ならあなたと普通にごはんにいけて、普通に遊びにいけるのに そう思っても、世間的には 理解されにくい わたしはどうやって、 生きていけばいいのだろう 振り返れば、子供の頃から 遊ぶのは男の子が大半 女の子で仲が良かったのは、群れないタイプの女の子だけ 今の私ができることは 私が話しかけたい人に話しかけ、 仲
何をやるか、はあんまり関係なくて、 どんな気持ちだったか、の方が だいじなんだなぁ。 だってほら、 「あのとき楽しかったなぁ」とか 「また食べたいなぁ」とか 「また行きたいなぁ」とか そういう安心した気持ちからしか、 幸せって生まれないんじゃないかな。 感じられないんじゃないかな。 何をやるか、じゃなくて どうやるか、 どんな気持ちでやるか。
この職場に属しているからこそ、 経験できること。 知れること。 挑戦できること。 安心できること。 楽しい瞬間。 きっとそういうことがある。 職場への不満や、課題は、 大なり小なりある。 人間関係の悩みもどこにでもある。 だけど、 嫌なところがあるからといって 「辞める」のが最善策だとは 今は思わない。 なぜなら、自分はこの職場に必要だと思うからだ。 自分がいれば、役に立てることがある。そう思えている気持ちがある。 周りの人たちと今まで築いてきた信頼がある。 そう