星野道夫さんの写真集を手にした。 私はなぜ生きていくの? 答えはそこにあるのか
今年に入ってから星野さんについて書かれた記事に触れる機会が多い。そもそもリスペクトしている師匠の口から星野さんの名前がよく出ていた。
師匠から紡ぎ出される言葉を聞き、繰り出される画像・映像に触れ、納得し、腹落ちして自分のものになる。
それらを喰み、感じると細胞に染み込む。そうしてはじめてアウトプットできるという過程だ。
師匠の言葉で十分だった。何度となく星野さんの名前がでてきたし、写真集もすぐそこにあった。けどしっかり手に取ることはなかった。
(画像はアークティック・オデッセイ「極北への、神話的な旅へ。」よりパシャリ)
年が明けて間も無く綺羅さん、ゼロさん、そして桃子さんの記事に「星野道夫」という字面を見た。
偶然もここまで立て続けに重なると、もはや偶然ではない匂いが立ち込める。
💙💙
綺羅さんは、私がnoteを始めて間も無くからコメントをくださり私もお邪魔している。幾度となく勇気をもらい、励まされた。記事の中に星野道夫の本を見つけ、ざっくり読んでコメントした。
いやぁ、星野さんでてきたよ〜。
そして今回改めて拝読した。綺羅さんの記事。
ここは「生」と「死」が隣り合う場所で、瞬間の「生」に全力を注いでいる。
と感じ、
私が息をするのと、住人たちが息をするのとでは、熱量が違った気がした。
自分の息と現地で生きる全ての生物の息では熱量が違うと言う。
夜になるに連れて、私の息は温かさを帯びてきた。夜には、煌めきのかけらが散りばめられた空に、そのなかで幻想的に風に靡くオーロラが見えていた。
ただそこに佇み、夜になってオーロラが出てくるころには息の暖かさを感じられ
まだ、ここで確かに生きていて、微かな湯気を上げながらも、玉虫色のカーテンを見上げているのだから。
確かに生きていることを感じられたと。
本一冊からここまで感じられる、想像して創造できる綺羅さん、凄いです。
💙💙
ゼロさん、創作墨字を書かせてもらってから記事を拝見している。忘れるを喰らうサッドすとーん。
創作墨字を仕上げたあと、その諸々はきれいさっぱり自分の中から消え去る。サッドすとーんもゼロさんから呼ばれるその時まですっかり忘れていた。
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あのとき、すべて仕組まれていたかのように物事が進んだ。閃き、心に浮かび、書にむかい、漢字ができた。全てが神がかりのように次々と沸き起こった。私ではない誰かの意思によって石との関わりに理由づけが行われた。
サッドすとーんと創作墨字のことを記事に盛り込んでくださった。呼ばれた私はそそくさと出かけた。
ところがそこに行く前に固定記事に目を奪われた。そこにはおじさんと称し星野道夫さんの名前が輝いていた。
>ゼロさーん、あの記事どこにあるですかーーーーー?
もう一回拝読したいよ。。。涙
❤️
ラブコールを受け取ってくださり、ゼロさん固定記事に戻してくださいました💕 ゼロさん!ありがとうございます!!
※おじさんは別の普通のおじさんで、同じおじさんでも星野さんとの対比が面白い。
バスで出会ったおじさんが残した新聞記事。赤線が引いてあった。
それは星野さんのことば。
結果が、自分の思惑通りにならなくても、そこで、過ごした時間は
確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく
過ごしてしまったかけがえのないその時間である。
自宅に戻ったゼロさんは
雑誌「SWITCH」に掲載されていた
<二つの時間、二つの自然>と副題されたエッセイと写真を
ひさしぶり目にする。
そこには
高校生の頃、北海道にあこがれていた星野さんが東京で電車に
乗っている時も、北海道にいるクマが、そこで生きていることの
不思議をひしひしと感じたらしく。
すべてのものに同じ時間が流れていることを、心に深く刻まれた様子が、綴られていた。
ゼロさんは言う。
アラスカ暮らしの長かった星野道夫さんの思う時間と、
おもわず新聞に赤い線を引いてしまいたくなった
おじさんの時間が、この場所で交差して。すこしばかりふしぎのむこうを垣間見た気がしていた。
ここは空 オーロラがいま 折りたたまれて
ふたつめの 呼吸を想う 遠くて寒い
(むかしの日記より)
↑ ゼロさんの芸術性が顕著に出ていて、今回引用させていただく以上の部分なんだと思います。
コメント欄にはこんな記載まで
アラスカの時間は刻々ときざまれる。人間は時間をつなぐことができる。それでいいのかもしれない。ただもうひとつの時間があることを心におき、もうひとつの時間を味わうことをするのがいい。
ゼロさん、追記させていただきました!
ありがとうございました😘
💙💙
桃子さんのnoteへも定期的にお邪魔しているが、じっくり本を読んでいる時間が全くつくれない。本を読める時間がきたら必ずお邪魔したいnoteと位置付けていた。たまたま伺って目にしたのがこちらの記事。
星野さんの文章に出会ったときの心の動揺を書き記してくださっている。
そんな私を見かねた母に、すこし遠くに出かけてみたらと提案されたのだ。
静岡への一人旅は、いわば傷心旅行だった。
もっと言えば、あのときの私は死に場所を探していたのかもしれない。
大袈裟に聞こえるかもしれないけれど。
でも、星野さんの言葉に出会って、私がそのとき見ていた世界は、小さな世界に過ぎないのかもしれないと思った。
もうひとつの世界があるのかもしれないと思った。
そして、もうひとつの世界を思い描いて、私は生きようと思った。
死場所を求めていた心が、もうひとつの世界を思い描いて生きようと思う。
ねえ、こんなに心を揺さぶることってあるんだろうか。
綺羅さんといい、桃子さんといい。
💙💙
そして私は師匠の元を訪れた。
(画像はアークティック・オデッセイ「極北への、神話的な旅へ。」よりパシャリ)
師匠は私に何度となく同じことを伝えている。話している内容は同じでも受け取る側の私自身の時間軸によって心にとどまる部分が違う。
今回、すーーーうっと入ってきたもの。
時間という概念は人間がつくったもの。本来、時は刻々ときざまれるだけ。測るものでもなければ競うものでもない。ただそこに流れている。
同じように、自然とともに、そこにただ生きている生きるものたち。
本来生きるというのは、ただ生きること。
それは食物連鎖のサイクルの中に含まれ、生を紡ぐ。
そのサイクルからはじけたニンゲンだけが、自然と共にいられない。どころか何かをまとわなければ生きることすらままならない。
鎧も、その見えないまとっているものも投げ捨てていい。
ただそこに生きていること。
それが生きるってことだよ。
💙💙
創作墨字の原点に立ち返った。みんなちがってみんないい。
いや、それより。
ニンゲンは本来、ただ生きているだけでいい。
それを忘れた人間たちは
何かをまとい、自分の本性に蓋をし
みんなにあわせ、何かに依存し、だれかに依存されることによってのみ生きる実感を得る。
ひとりで生きること、ひとりで立つことさえおぼつかない。
人間として生き、時間に追われ、他者と比べながら生きる
それはそれでいい。
たまに、刻をきざむだけの感覚を思い出し、ただ生きることだけに集中する
そんな刻をきざむのがよい。
思い通りになど、なるはずもない。
もともと、師匠から入っていた言葉が写真集を手にすることによって、さらにストンと腹に落ちた。
星野道夫さんという人のファンではない。
星野さんの生き方・在り方に惹かれるのだと師匠は言う。
私はほんの少し星野さんの世界に触れてみた。圧倒的なパワーと主張を感じ、師匠の言葉を補完した。
もう少し、少しづつ扉を開けてみよう。
※桃子さん、ゼロさん、記事にリンク貼りました。お嫌でしたらおっしゃってくださいね。
綺羅さん、ご紹介することご快諾いただきありがとうございました😊