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我流、プロットはこう作ってます

 小説を書くのにプロットは必ずしも必要ではないと書いた。
 プロットは小説の設計図ではなく、ガイドのようなものだとも書いた。
 あれこれと小説作法を読みふけった上で編み出した(たどり着いた)我流の方法、捉え方ではあるが、ある種の見本 —— 多分に反面教師としての価値の方が高いと思うけれど —— として開陳することにする。

 まず、プロットは小説の構成を細部まで書き記した設計図ではないと頭から離さずにおいている。
 プロットが設計図ならば、プロットを見た誰もが寸分違わぬ小説を書くことができてしまうはずだが、現実はそうはならない。この時点で「プロット=設計図」説は破綻する。

 先日は「ガイドブック」と例えたが、これも間違いな気がしてきた。
 ガイドブックとは、行った先々が一体どんなところであるのかを説明した案内書であるから、まずその場所に行くことが前提となる。
 逆に言えば、ガイドブックに載っていても行かない場所は山ほどある。
 「とりあえず網羅する」ことを目的にプロットは作られないのだから、どうやらこの例えも間違いのようだ。

 結論から言うと、プロットとは「ルートマップ」なのであった。
 観光旅行に出る際に、あらかじめ周到に見て回るルートを決めて出かける人にはルートマップの作成は欠かせない。
 逆に行き当たりばったり、気の向くままに旅を楽しむ人にとってはルートマップなど不要中の不要。その場その場の思いつきで足を向ける方向は変わる。
 プロットの必要性が人によるのはこうしたことが理由なんじゃないかと気づいた。

 僕個人のことを言えば、旅行に行く前に計画を練る方ではない。
 おおよその見当だけをつけて、あとは行ってから考えるタイプだ。小説の執筆で言えば、全体像をざっくりと捉えて、あとは書きながら考えるタイプだろう。
 ところが小説に関してはプロットなしに書ける感じがまったくしないのだから面白い。
 旅行ならばルートマップを作ってあっても無視することはできるが、プロットに関しては「そこは必ずその順序で通らなければならない」ように作っているからである。

 まず頭の中で物語の出発点と到着地点を決める。
 小説のお約束としてクライマックスはゴールの手前におかなければならないので(開始5分でクライマックスが来て、残りの2時間近くをどうでもいいことを見せられる映画など見られたものではない)、着地する前の山をどの程度高くするかをぼんやり考える。
 私小説なのに、クライマックスが人類存亡の危機では激しすぎるし、国際スパイ小説なのにクライマックスがコタツでみかんを食べながら人生を振り返るのでは緊張感がなさすぎる。
 スタートからゴールに至る最後の山、フルマラソンなら最後の上り坂、いちばん大きなドラマが起きるポイントの高さをどうするかを考える。

 そのあとは、クライマックスを経てゴールに至る途中で通過しなければならないポイントを決めて行く。ルートには必然性がなければならない。この場面の次にはこれが起きる、この場面で過去を振り返ることで次の場面へ進む必然性を生む、と行ったように全体の因果関係が破綻しないようにルートを決めて行く。

 ポイントはその場その場での登場人物の心情はまったく記さないことかもしれない。
 小学生の宿題の絵日記みたいに「プールへ行きました」「公園の滑り台で遊びました」と、単に起きたことだけを記録していく。
 着想を得た、頭の中では面白い小説になるに違いないと思えたものが破綻していないかどうかは、こうしてプロットを繋いでちゃんとゴールにたどり着くかどうかでわかる。

 ここでわかるのはゴールにたどり着けるかどうかだけで、面白い小説になるかどうかは、この後の「技術」によるんだろうと思っている。
 世にある面白い小説は、プロットが面白いから面白いのではなく、作者のテクニックによって面白くなるように作られている。そんな気がする。

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樹 恒近
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