わたしが一番毒親だったとき(後編)
※前編はこちら
保育園の入園が決まって、パートを始めたのは娘が3歳になる年だった。
前職は土日の出勤もあり、残業も多い会社だったので、産休などは使わず出産前に退職をした。
保活のために就活をして、3社に内定をもらった。その中でも勤務時間が17時までと短く、自宅と保育園から一番近い、自転車で送迎できる距離の会社を選んだ。とある中小企業の、パート事務だ。
この会社が、かなりのブラック企業だった。
仕事が終わらないと休日出勤、持ち帰り残業は当たり前。社長はワンマン、上司は「やっといて」が口癖で明確な指示をくれない。40代後半のお局様たちは終始不機嫌で、気に入らないやつを徹底的にいじめる。その他の社員やパートはビクビクしながら働いていた。風通しはまるでなく、空気の悪い会社だった。
こんなとこ早く辞めてやると思いつつ、生真面目な私は、朝は誰よりも早く会社に着いて丁寧に掃除をし、社長や上司の乱暴な無茶ぶりにも嫌な顔せず応えた。
会社の誰よりもエクセルが出来たことと、持ち前の仕事の正確さがお局様たちに認められて、気に入られた。
週5日、会社で空気を読みすぎて、要領よく動き回るのに疲れていた。
仕事が終わり、娘を迎えに行き、家に帰って家事育児家事育児家事育児。相変わらず夫も仕事が忙しく、ほぼワンオペ状態。
大好きだった料理もまともにできなくなり、嫌っていた冷凍食品やインスタント食品を多用するようになった。
生活にゆとりや豊かさがどんどん減っていく。子どもとの絵本タイムも取れなくなり、寝かしつけでそのまま寝てしまう。夫は家事も育児もできる範囲のことはやってくれていたと思う。
でも、それでは足りなかった。
私の方が大変だ、損してる。男のあいつ(夫)はなんてラクなんだろうと思って、さらにイライラしてばかりいた。
仕事の愚痴と夫への要求が増えた。「そんなに嫌なら辞めれば、パートなんだし」「パートなんだからそこまで頑張る必要ないよ」と言われるとカチンときた。パートをバカにすんじゃねえ、好きでパートで働いてるんじゃねえ、自分が正社員だからって見下すんじゃねえ、だったらお前がもっと稼いでこいよ。不妊治療で減った貯金を取り戻すため、近い将来1LDKの家から引っ越すため、家計をやりくりしながらお金を貯めているんじゃないか。
夫との口論が増えた。喧嘩するほど仲が良いなんて嘘だ。喧嘩すればするほど、夫のことが嫌いになっていった。きっと、夫もそうだったろう。
コロナで潔癖症を再発してからは、私のストレスはピークに達した。今思えば完全にモラハラ妻だった。子どものために耐え続けていた夫がとうとう限界に達し、離婚した。
完全ワンオペになり、自分の時間はほとんどない。何かを優先すれば、何かが疎かにかなる。
ただ、夫がいなくなったことで気持ちが楽になった。夫の欠点を見なくて済む、口論しなくて済む。
それに、離婚でメンタルを崩した娘への罪悪感があるうちはよかった。毒親の芽がしぼんでいったから。
離婚から1年が経って、娘がパパのいない生活に慣れ、私自身も娘との2人の生活に慣れてきた頃、娘が突然、違う子になってしまった。
朝、起こしても起きない。トイレにも行きたがらずにその場で漏らす始末。食べ物を粗末にする子じゃなかったのに、皿をひっくり返して床に落とす。着替えないからパジャマで無理矢理保育園に連れて行ったこともある。やだやだやだの連呼。言葉が通用しないと分かっているのに、私の口からは娘を説得させる言葉しか出てこない。
このときのことを「地獄の6月」と呼んでいる。
わたしが一番毒親だったときだ。
初めは、娘の突然の変化に混乱し、抱きしめ、なだめ、優しい言葉をかけていた。それもまったく通用しない。あまりの変化に、いったいこいつは何なんだ、誰なんだ、私の子じゃない、こんな子知らない、と思うようになった。
私の子どもはいい子なんだ。
お腹にいるときから母親想いのいい子。
食べ物をこぼせば「なんでちゃんと食べないの!こぼしたら私が掃除しなきゃいけないでしょ!」と言って手を叩く。食べたくないと言われれば、「じゃあそのまま食べないで死ねばいい」とひどい暴言を吐いた。
着替えるのが遅かったら「早くして!私が仕事に遅れるでしょ!仕事に遅れたらお金もらえなくなって、公園で暮らすしかないよ!」と腕を強くひっぱり、家から引きずり出す。
ねえママ、と話しかけられれば「うるさいな!ママって呼ぶな!言うことを聞かない子なんて私の子じゃない!」と睨みつける。
私は娘に告げる自分の言葉に既視感を覚えていた。そう、子どもの頃、自分が母に言われた言葉そのものだった。
「なんで〇〇しないの!」「誰が片づけると思ってるの!」「早くしなさい!」「泣くな!」「うるさい!」「汚すな!」「何笑ってんだ!」「出て行け!」「お母さんと呼ぶな!」「勝手にしろ!」「いい加減にしろ!」
母と同じで、眉間にシワを寄せて歯を食いしばりながら怒鳴る私の声に、娘は大泣きする。「泣きたいのはこっちだ!」「うるさいうるさい!静かにしろ!」そういって、泣き止まない娘を風呂場に閉じ込めたこともある。怒らせないでくれ、私の心を波立たせないでくれ、お願いだからあの母と同じ言葉を言わせないでくれ……。
まさか、あれほど嫌悪していた母と自分の姿が重なるとは思いもしなかった。
母とは縁を切っていたのに。
母のようにはなりたくなくて、真逆の人生を選んできたのに。
娘に怒鳴り散らした日の夜はいつも、泣き腫らした目で眠る娘の顔を見て、私はなんてひどい母親なんだろうと泣いた。
明日もし、この子が死んでしまったら、私は絶対に後悔する。もっと優しくすればよかったと、一生後悔する。
アンガーマネジメントの本を読んで、深呼吸や6秒ルールなど、ノートにメモをした。ネットで似たような状況のお悩み相談を探しては、回答を貪り読んだ。だけど、怒りの感情に囚われている間は、そのすべてを忘れてしまう。
わざと窓を全開にして怒鳴り散らしたこともあった。
誰か、あの家で子どもが虐待されていると通報して。私を止めて、と。
Eテレで、子ども向けに虐待を伝えるアニメが放送されていた。
どこかに相談しないといけないと思って、市役所に相談に行ったり、LINEで子ども家庭110番に相談したこともある。
公共の相談所は共感して話を聞くだけだった。「お母さんの心に余裕がないんですね」「そういうときはお子さんと少し離れてみてください」「お母さんは十分頑張っています」
何度相談しても、同じだった。ただただ共感するようにマニュアル化されているんだなと気づいて、助けを求めるのをやめた。
保育園の担任にも「娘を殺しかねないかもしれない」と相談した。その先生は毎朝、私の様子を気にかけてくれて、背中をさすってくれて、「今日も来られてよかった、気をつけていってらっしゃい」と仕事へ行く私を見送ってくれた。
それだけが、唯一の救いだった。
地獄の6月から1か月ほどが経つと落ち着き、娘はいい子に戻っていった。
親の顔色を窺ういい子に。
泣きそうになると、私に背を向けたりトイレに行くようになった。
出されたご飯は残さず食べるようになった。
こぼさないように、慎重になった。
大きな声や音は出さないようになった。
なんでも、私に許可を求めるようになった。
失敗すると「ごめんなさい、もうしません」と言うようになった。
私はそんな娘に、〇〇ちゃんはいい子だね、地獄の6月はもう終わったね、と言った。
娘が私の顔色を窺う目は、私が幼少期に母の顔色を窺う目と同じだと感じていたのに、もうあの地獄の日々には戻らないでくれ、このまま言うことを聞くいい子でいてくれと、圧をかけて洗脳した。
娘はよく吐くようになった。
そして、夜中に寝ていると飛び起きて、私を探すようになった。
落ち着いたんじゃない、娘は自分の感情を抑圧することにしただけだったのだ。
誰だって、毒親になろうと思って子どもを産むわけじゃない。
私は子どもを産んではいけない人間だった。
あの母の血を継いでいるのだから。
でも、いくら後悔してもやり直せない。もう手遅れだ。子どもをなかったことにはできない。こればかりはリセットできない。
養子に出す?施設に預ける?そうしたら、私がこの子の母親だったことが消えるのか?
そのことを元夫に話したら、俺が育てようか、と申し出があった。
娘にパパと暮らす?と聞くと、3人で暮らしたいと言われた。
それは無理だと答えると、じゃあママと暮らしたい、でも寂しいと娘が言った。
ママは、私が嫌いなんでしょう、私と遊ぶ時間は無駄なんでしょう、私は生まれてこない方がよかったんでしょう、言葉を噛みしめるように涙を流しながら。
違うよ、全然違うよ、そんなこと思ってないよ、と言いたかったが、私があの子にした仕打ちを考えたら、説得力なんかまるでなかった。
私が娘と同じくらいの年に、自分の母に思っていたのと同じことを、娘は私に思っている。毒親が連鎖している。
このとき、私は娘に自分の母について話をした。
ママも自分のお母さんに同じことを思っていたと。
娘が1歳のときに会って以来、母とは絶縁状態だったので、娘は母のことを覚えていなかった。
ママは、お母さんに褒められたことが一度もなくて、いつも怒られていたこと。手をつないだり、ぎゅっと抱きしめてもらった記憶がないこと。弟ばかり可愛がられて寂しかったこと。本当はお母さんに大事だよ、大好きだよって言ってもらいたかったと。
そういうお母さんに育てられたから、ママはいいお母さんになれないのかもしれない。ごめんね、と。
娘はポロポロと涙を流しながら、同じように泣いている私を、可哀想だといって抱きしめてくれた。
ママは私のことが嫌いなんじゃないんだね。ママも寂しかったんだね。わかったよ、と言ってくれた。
わたしが一番毒親だったとき
わたしは母から生まれてきた子なんだと思い出した
わたしに流れる血から母の成分を抜きたくて
抜いたら断絶できるはずと信じていた
わたしが一番毒親だったとき
わたしは母親の仮面をかぶった独裁者だった
わたしの味方はわたしを含めてもだれひとりいない気がして
わたしがわたしを殺すことでしかもう終わりがないような気がしていた
わたしが一番毒親だったとき
わたしになにをいわれても
わたしになにをされても
ごめんなさいごめんなさいと必死にすがって
わたしの愛を求めていた娘
ごめんなさい
ごめんなさい
あなたの信頼を裏切って
ごめんなさい
ごめんなさい
あなたに人生を捧げると誓ったのに
あなたはわたしが生まれてきたことに意味をくれたのに
あなたはわたしがいないと生きていけないのに
わたしが一番毒親だったとき
あなたはわたしを愛してくれた
みんな離れて行ったのに
あなただけがずっとわたしのそばにいて笑ってくれた
※この記事と詩のタイトルは、私が好きな茨木のり子さんの詩「わたしが一番きれいだったとき」にインスパイアされたものです