イトシマメグル #8
昔はここまで海だった
最近は、何気ない風景の中にも、「思いもよらない歴史が隠されているのでは」と考えるようになってきた。ここは昔は何だったんだろうと、ふと立ち止まることも増えた。
今日は、気になっていた志摩歴史資料館に行ってみた。
伊都国歴史博物館とはまた違った雰囲気で、時代による移り変わりが模型やレプリカを使い分かりやすく説明されている。
展示しているさまざまな資料を見て、これまで少しずつ見聞きしてきた糸島の歴史のイメージがつながってきた気がする。
なかでも一際印象深かったのは、糸島の干拓の歴史についての展示。
昔の絵図をみると、志摩地区と前原地区の間には海が広がっている。
西から加布里湾、東から今津湾が入り込んでいて、波多江と泊のあたりが、細くつながっていただけのようだ。
確かに、「波多江」とか「泊」なんて、いかにも海に関係ある名前。改めて考えると、浦志や周船寺もそうなんだろう。
気になったので、帰りに、その「細くつながっていた」あたりにある志登(しと)神社に寄ってみた。昔は浮島と呼ばれ、海中に浮かぶように見えたそうだ。海に囲まれた神社を想像してみた。
一面平らな低地で、海だった名残を感じることができる。
海を想像しながら、当時の海岸沿いにあったという志登支石墓群(しとしせきぼぐん)にも立ち寄った。埋葬した上に大きな石でふたをする形のお墓で、古代の朝鮮半島でよくみられたスタイルらしい。10基ほどあるうち、大きい石は長さ2mほどもある。
支石墓群の向こうに、糸島のシンボル可也山(かやさん)が見える。可也山の「カヤ」の名前には、当時交流があった朝鮮半島の「伽耶」が由来との説もあるらしい。交流といっても、行き来するのは命がけで、今に例えたら宇宙旅行みたいなものだろう。
かつての糸島にあった入江から、命がけで大陸と行き来する人がいて、そして、新しい文化がここから全国に広がっていった。そう思うと、見えている風景が一層特別なものに感じてきた。
また、すぐ近くの潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡では、長さ約7mの木造船や、水晶や碧玉(へきぎょく)という石英の一種を原料とした玉作りの工房の跡が見つかったとのこと。
この支石墓ができたころ、玉作りが行われていたころには、可也山は海の向こうに見えていた。
海の向こうに見える可也山を想像してみる。長い長い時間の流れ、そして人々の営みの積み重ねを感じることができる風景。
帰り道、カメラを持って歩いてみる。昔の海の中を歩いている。
見えるものと見えないもの。歴史の楽しみ方がわかった気がする。
#9 にメグル
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