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クリスマスのいろどり

クリスマスの朝、ホストマザーとファザーは起きぬけからケンカをしていたらしい。

私がちょっと遅れて、そしてちょっとちゃめっけを出してサンタ帽をかぶって下に降りたら、ふたりは、そう広くもないキッチンで互いに背を向けあっていた。それぞれ鍋をかきまわし、包丁で野菜を刻みながら。

そうっと自室に戻って赤いサンタ帽を脱ぎ、いかにも寝すごしました、そんなふうを装ってばたばたと階下に急ぎなおすと、ふたりはたちまち笑顔になって、言った。

メリークリスマス、お寝坊さん。





休日の朝、何時に起きるべきか。
この家で暮らしはじめたその日に尋ねていた。
いつでもご自由に、マザーに言われたので、じゃあ九時で、と言ったとたん、マザーは大げさに天を仰いだ。まあ良く寝る子だこと、と。

だから、つい、いつもと変わらない時間よりはちょっと早いぐらいの八時半に起きていったのだけれど、甘かったようだ。

クリスマスなのだから。

ふだんのお休みとは違うことを、私はいまだに理解していなかった。





ええと、何か手伝えることは。そう聞いたら、マザーとファザーはぴたりと料理の手をとめた。
たくさんあるよ、と言う。

まず朝食をとって、紅茶をのんで、ちょっとゆっくりしよう。

そのまえに、クリスマスプレゼントを開けよう。

私はそれまでのちょっとした気まずさをあっさり忘れて、たぶん満面の笑顔になっていたと思う。





ホストファミリーの家にはもう子どもはいない。
だからか、クリスマスツリーはテレビの上に飾るほどの大きさだった。
ツリーの足もとにプレゼントを置いてしまうと、テレビが観れなくなる。
そのため、プレゼントはホストマザーが一時的に預かって、どこかにしまっていた。たぶんマザーとファザーの寝室だと思う。

やがてマザーの指図でファザーが両手にいっぱいのプレゼントをリビングに運んできた。

赤、緑、青、金色、さまざまな色のラッピング。

一つひとつに宛名がついているので、みんなで手にとっては、これはあなたの、これは私の、と選りわけていった。

私がまっさきに開けたのは、もちろんマザーとファザーからのプレゼントだった。

なるべくきちんと包装を解いた。
どきどきしながらも、私はやっぱり日本人のままだった。

二重にまかれたラッピングの奥にあったクリスマスプレゼント。
ネルのシャツだった。
えんじや紺が入りまじったブロックチェックのシャツ。

私がそれを広げて、息をのんでいると、マザーが、

「きっとあなたに似合うと思って」

そんなかたちで、誰が選んだのかを言外に明かしてくれた。

ありがとう、とても素敵、大切に着るね。
感謝のキスの後で伝えた。





自分から誰かに軽いキスができるようになったのは、つい前日のクリスマスイブからだった。

イブはマザーのお孫さんたちが押し寄せていて、クリスマスだからとはしゃぎながらも、メリークリスマス、今日のあなた、とても綺麗だよ、と、さいしょのあいさつは忘れていなかった。

ありがとう、あなたもよ、と気づいたら自分から身をかがめてお孫さんたちにキスをしていた。

キス。
なかなか実現できずにいたイギリスの文化を、ひとつ、身につけられたようで、それが嬉しかった。





ホストマザーへのプレゼントは、小さな家のオブジェだった。
十二月に入ってすぐに、マザーがいない隙をねらったファザーに、彼女へのプレゼントは用意したかい、と聞かれた。
まだなの、何がいいかわからなくて、と答えたら、彼女はミニチュアハウスをコレクションしている、毎年それを贈っているけど、今年は君と僕からということにしておかないか、と言ってくれた。
おことばに甘え、半額を負担した。
カードだけは別に贈った。

マザーには他に、ファザー個人から、とグリーンのコートのプレゼントを受けとっていた。

「あのひと、私にくれるものは大抵、グリーンなのよ。別に私の好きな色ではないんだけど、私に似合うと思ってるみたい」

いつだかマザーがそうこぼしていた、そのとおりだった。
マザーがコートを手にファザーにキスをしたあと、ちらっといたずらっぽく私を見たけど、とぼけたふりをしておいた。

ファザーへのプレゼントはちょっとおぼえていない。
けれど、これもマザーがファザーと同じように、私とあなたからということで用意しておくから、と言われ、お願いしておいたものだった。
それだけは確かだ。

クリスマスプレゼントはひとりからひとりにひとつ、と決まっているわけでもないようで、目の前に贈ってくれたそのひとがいたら、その数のぶんだけキスをする。

あの日、三十分とたたないあいだに、どれだけ私たちのあいだでキスがかわされただろう。

私はもちろん、プレゼントもとても嬉しかったけれども、キスのあたたかさが何よりもしあわせだった。





正午になり、招待客が集まって、クリスマスディナーがはじまった。

マザーの息子さん二人、その奥さんと、ガールフレンド、そしてマザーのお母さん、ミス・フルネームという顔ぶれ。
日曜日にもよく遊びに来るひとばかりだから、私ものんびりしていた。
そのはずなのに、やはりどこかで緊張はしていたのか、途中で激しい胃痛に襲われ、トイレに行くふりをして二階で三分だけ休んだりもしつつ、ディナーは順調に進んだ。

メニューははっきりとは記憶にないが、クリスマスでなければ出てこないような凝ったものだった印象はある。
どれもおいしかった。

さいごのさいごでクリスマス・プディングの出番がやってきた。

「今年は特別な子がいるから特別に用意したわよ」

マザーがにやりとして私を見たかと思うと、やにわにプディングにアルコールをふりかけた。たっぷりと。

そこでガスバーナーの登場。
マザーの一撃で、プディングが赤く燃え上がった。

全員がきゃあきゃあと騒いでいるうちに存外あっけなく火は消えた。
そこには燃やされるまえと何ら変わらない姿で、プディングが平然とたたずんでいた。

マザーがナイフで切り分け、それぞれの皿に寝かせて、まわした。

レーズンやくるみ、その他いろいろな実がつまったプディング。
私の感覚ではプディングというより、かたいパウンドケーキ。

思ったよりすごい味ではなかった。
おいしいとかまずいとかよりも、ダイニングテーブルで着火することのほうが思い出としては強烈だ。
子どもがいなくなるとしなくなること、というのも、わかるような、わからないような。

クリスマス・プディングは長期保存が利くので残しておいて翌年のクリスマスにも食べられるそうだが、その日のうちに全員で食べきった。





マザーのお母さん、ミス・フルネームは、マザーの予言どおりきちんとした盛装でやってきた。
帽子もいかにもイギリスの夫人らしい、かっちりした、でもふしぎに明るいピンク色だった。

素敵です、とてもよく似合っています、そう必死に褒め讃えたら、ありがとう、と彼女は端的に返したあとで、少しだけ黙ってから、この音楽はあなたがかけたの、と尋ねてきた。
その日、来客前からマライア・キャリーやさまざまなアーティストによるクリスマスソングのCDを流しておいた。
私が、はい、と答えると、ミス・フルネームは、うなずいた。
そうして、たぶん、また耳をすましてから、言った。
若い声なのに、良い曲ね。





ディナーの席では、マザーの息子さんの勤めている会社が日本企業に買収された話題でしばし持ちきりになった。

日本からも何人かおえらいさんが来てるんだけど、みんないばりちらしていて、仕事のことをわかっているとは思えない、英語もあまり通じなみたいだし、これからどうなるんだろうと不安だよ。

途中で、その息さんのガールフレンドが、私のほうを向いた。

誤解しないで、あなたを責めてるわけじゃないのよ、日本人のすべてがそうだとも思ってないの、ごく一部だってちゃんとわかってる、でも最近、こういうことが多くてね。

そんなふうに気づかってくれた。

ちょうどそういうころだったのだ。
バブルがはじけてから、まだほんの数年。
私がイギリスに来てたった数ヶ月のあいだに何人も首相が交替したり、その直前に米不足があったり、クリスマスの直後には神戸淡路大震災や地下鉄のテロが続いた。
そとから見た日本はまるで私の知らない国のようだった。

そしてその時期のイギリスは、日本人が八十年代をなつかしむように、あのころのイギリスはよかったなあ、そんなふうに言われることの多い九十年代の初頭だ。

オアシスがデビューしてヒットチャートを塗り替え、Mr.ビーンは老若男女の好評を博す反面で障害者差別とも非難され、王室は相次ぐスキャンダルで民を飽きさせず、香港返還を目前にたくさんの中国人がイギリスに流れこんできていた。

私が暮らしていた中部は工業地帯。
家のまわりには工場がいくつかちらばっていた。
低賃金ではあっただろうけど失業率は低い街。
企業を買うほどの余裕がなくなった日本の資本家は工場に手を伸ばしていたのかもしれない。くわしくはわからない。

いずれにせよ、あたたかいクリスマスの記憶のなかで、そのことだけがカーペットの下に入りこんだ小石のように今でも足の裏に感じられる。

決して良い話題とはいえないけれども、日本人である私のまえでも遠慮なく口にしてくれたことを、それはもう家族も同然の扱いだったから、と思っていいのか、どうなのか。
あれから二十五年がたっても、まだ答えは出ない。

でも、その半年後、帰国もまぢかとなったころ、別の息子さんの結婚パーティーでべろんべろんに酔っぱらったくだんの息子さんが、なあ、いつでも戻ってこいよ、もう家族だろ、この国と家が気に入ったんなら帰らなくたっていい、そんなことをろれつの回らない口調で言いながらハグしてきて、ガールフレンドにひきはがされ、こんな状態だけどこいつの本音よ、と彼氏の腕をひねりつつ笑ってくれた。そして、続けた。
もちろん、私もそう思ってるわよ。さみしくなるわ。

私の服にうつって鼻をかすめるお酒のにおいは、クリスマスディナーの、あのプディングを思い出させてくれた。





もうすぐ十八歳になる、十七歳のクリスマス。

あれは確かに何かの境目だったのだと、今になって思う。

子どもあつかいが許されて、甘やかしてもらって、でも私はどうしても日本人で、彼らから見たら私は難しい英語も政治のこともわかっていないつたない外国人で、だから子どもあつかいもできる、そんな輪っかのような境界線。

その中で、私はキスやハグを学び、日本人という大きなくくりから何とか一歩ぐらいははみ出て個人になろうと無意識に試み、イギリスに溶けこむのではなく出会ったひとたちとの世界の住人になろうと、知らず願っていた。

未だに国境は必要だと思っているし、多様性があたりまえの世の中ならいい、たまたま生まれた国と相性があわないとき逃れられるよう他国という存在は不可欠で、移動や変化がどんなに困難を極めても選択肢さえあれば道はひらける、そう考えている。

そういった感覚が、このクリスマスのころにはほぼ備わっていた気がする。





ディナーが終わり、招待客が帰っていった後、急いで片づけをした。
おやすみ、とそれぞれ部屋に引き上げたのは、いつもよりちょっと遅い時間だった。

自室でひとりになり、ベッドに座って、もう一度、シャツをそうっと広げてみた。
プレゼントのシャツ。

「あなたに似合うと思ったから」

一色ではない、いろいろな色がまじったシャツ。
これをお店で見たとき、マザーの中の私はどんな人間だったんだろう。

それからイギリスへと旅行に出るたび、宿ではおるのにちょうどいいからとそのシャツを持っていったが、誰かしらに必ず一度は言われた。

「そのシャツ、似合うね」

脇がほつれ、穴があいてしまったけれど、今でもそのシャツは着られる。





クリスマスに贈られた、私のイメージ。
マザーとファザーからもらったキス。
燃えるプディング。

さいごの後かたづけで、イギリスのお皿あらいは、洗剤を流さない。泡がついたまま、立てかけておくだけ。
そういうことにもすっかり慣れてしまっていた。





クリスマス。
特別な日、そして、日常のなかの一日。

それでもやっぱり、何度も読み返した本のなかですりきれそうなページのように、くりかえしふりかえり続けてきた思い出。

あのぬくもりをたよりにして、イギリスのあまり良くはない評判もできごともぬぐいさって、出会ったひとたちのキスやハグやことばにある確かさのほうを信じて、私は生きている。
今なお、外がわにありながら、息をしている。







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